「第3章 少しずつ近づく距離」
いつからだろう。ゲームのアイコンをタップする手が、かつての惰性や習慣を失っていた。
俺はただ、そこに「彼女」がいるかどうかを確認するために、電子の箱庭を開くようになっていた。
最初のうちは、自分でもその変化を認めようとはしなかった。ログインする時間も、お決まりのルーティンも、何ひとつ変わっていないはずだった。
けれど、今の俺は――真っ先にプレイヤーリストをスクロールしている。
無意識のうちに、特定の四文字を捜している。
――Tachibana Rei
その灯がすでに点いている日もあれば、灰色の沈黙に閉ざされている日もあった。
ただそれだけの違いが、どうしてだか、俺の内の世界の気圧を奇妙に変化させる。
彼女がいる時は、すぐに次の動作へ移るのをやめ、ただ待った。彼女がいない時は……一応はプレイを続けるものの、すべてが驚くほど速く退屈へと変わっていった。指先がすぐに軽くなり、アバターの動きが止まる。
その歪みに特別な名前をつけることはしなかった。だが、俺の身体は確実に、彼女というデータの存在を前提として動き始めていた。
三日目のことだった。めずらしく、向こうから最初のパルスが届いた。
『ログインした?』
その時、俺はまだ大学の敷地外にある、色の禿げかけたベンチに腰掛けていた。行くあてもなく、ただ時間を潰すためだけに。
ポケットのなかで震えた通知を、数秒間、じっと見つめる。
気がつけば、講義のノートを開くよりも早く、アプリを起動させていた。
『いま』
『遅い』
画面の向こうの小さな不機嫌に、俺の胸の奥が微かに揺れる。
『今開いたところだ』
『待ってた』
あまりに簡潔な三文字だった。
飾り気のない、感情の起伏すら削ぎ落とされた文字列。なのに、俺はその文字の並びを、網膜の裏でもう一度なぞり直していた。絵文字も、前後の文脈もない。ただ、それだけ。
俺は理由もなくベンチから立ち上がっていた。まるで、そうしなければ間に合わない、切迫した何かがそこにあるかのように。
それからの日々は、ひどく穏やかに、そして確実に融けていった。
俺たちは決して、互いの根幹に触れるような大きな話はしなかった。タイムラインを流れていくのは、いつも他愛のない砂粒のような言葉ばかりだった。
『今日は人が多いな』
『うん』
『少しラグがある』
『重いね』
意味のない、生産性のかけらもないやりとり。
けれど、その言葉の隙間に横たわる静寂が、以前のように寒々しく感じられることはなかった。
時折、その平坦な対話のなかに、小さな棘のような事実が混じる。
『いつも何時くらいに繋いでるの?』
『不定期』
『仕事?』
空白。ラグと呼ぶには、少しだけ長い躊躇。
『うん』
『どんな仕事?』
今度の沈黙は、さらに深かった。もう返事は来ないのではないか。そう思い始めた頃、ぽつりと二文字が落ちてくる。
『絵』
俺の指先が、キーボードの上で止まる。
『イラストとか?』
『似たようなもの』
それ以上の説明はなかった。俺もまた、その先を暴こうとはしなかった。いつものように。
別の日、彼女は再び長い離席(AFK)に入った。
今度は、これまでになく長かった。俺のアバターは、彼女の微動だにしないキャラクターの傍らで、ただ佇んでいた。
何をするでもなく、ただそこにいる。
どうして自分はここで待っているのだろう。以前の俺なら、とっくにパーティを解散して、現実のベッドに潜り込んでいたはずなのに。
引き延ばされた時間が、数分、あるいはそれ以上、電子の海の底へ沈んでいく。
やがて、アバターが息を吹き返したように小さく動いた。
『ごめん』
『気にするな』
画面を叩こうとして、ふと指を止める。――仕事、長引いたの?
打ち込みかけた文字列を、一文字ずつバックスペースで消去していく。何故だか、それを訊いてしまえば、二人の間にある薄氷が音を立てて割れてしまうような、そんな予感があった。
数日後の深夜。
『あなた、毎日いるね』
『お前もな』
『そうでもない』
『よく見かけるぞ』
短いラグ。
『たぶん、偶然』
何故だろう。その一言が、彼女が意図的に作った、ひどく不自然な軽さを持っているように思えた。本心は、もっと別の重さを含んでいるのではないか、と。
その夜、俺たちはダンジョンへは行かなかった。
ただ中央広場の片隅で、二つのアバターを並べたまま、静止していた。何もしていない。けれど、それが時間の無駄だとは、どうしても思えなかった。
『退屈じゃないか?』
『ううん』
『なんで?』
空白。いつもより遥かに長い、重い沈黙。
俺はただ、液晶の底を見つめて待った。
やがて。
『あなたがいるから』
指先が、完全に凍りついた。
すぐに言葉を返すことができなかった。何を打ち込むべきか分からなかったわけではない。ただ、その文字列が持つ剥き出しの質量が、光回線を伝って、俺の胸の真ん中にあまりに直接的に突き刺さったからだ。
『……』
ドットの三点リーダーを消去し、入力をやり直す。
『変な奴』
『うん』
言い訳も、照れ隠しの言葉もない。ただの肯定。
けれど、その後のタイムラインに、気まずい空気は微塵も流れなかった。
その日を境に、俺たちは「何もしない時間」を共有することが増えていった。
レベルを上げるわけでもなく、効率を求めるわけでもない。ただお互いにログインし、アバターを隣り合わせ、しばらくして接続を切る。
それだけなのに、確かに、俺たちはそこに「一緒に」いた。
ある夜、唐突に彼女の文字が跳ねた。
『もし、私が急にいなくなったら……』
心臓が、微かに跳ねる。
『どうした?』
即座に返した。だが、そこからの秒針はひどく遅かった。
数秒。あるいは、永遠のような静寂。
『なんでもない』
俺はしばらくの間、その文字を見つめ続けていた。
途切れた言葉。完結しなかった文章。彼女は何かを言いかけて、そのまま冷たい電子の底へ沈めてしまったのだ。
それ以上、俺がその件について触れることはなかった。
けれど、その一言は、俺のタイムラインの底に、消えない澱のように残り続けた。
あの日以来――俺はもう、退屈を紛らわすためだけに世界へ繋ぐのをやめていた。
液晶の向こう側に、自分を待っているかもしれない「誰か」がいる。
ただそれだけの事実が、俺のモノクロームだった日常の輪郭を、少しずつ、塗り替え始めていた。




