「第2章 最初のやりとり」
いつもなら、一つか二つのダンジョンを機械的に消化した時点で、何の未練もなく接続を切っていたはずだった。
けれど、その日は違った。
画面を閉じるための指先が、どうしても動かない。やり残したクエストがあるわけでもない。ただ、冷たい液晶の底から視線を外すことを、身体が拒否しているようだった。
プレイヤーリストの片隅。
――Tachibana Rei - Online
その文字列が、まだそこに灯っていた。
理由などわからないまま、俺は再びチャットウィンドウを開いていた。
『俺たち、どこで会ったっけ?』
数秒の空白。
ラグと呼ぶにはあまりに短い、けれど待つ身にとっては奇妙に引き伸ばされた静寂。
『ここ』
返ってきたのは、ひどく簡潔な、それゆえに妙な説得力を持つ二文字だった。
『ギルド?』
『違う』
俺は画面のこちら側で、微かに眉をひそめた。
『じゃあ、前のパーティ?』
今度は、すぐには既読がつかなかった。
会話はこれで終わりだろうか。そう思い、キーボードから手を離しかけたその時、ログが更新される。
『あなた、よくここにいるから』
指先が止まる。
何ひとつ具体的な答えになっていない。それなのに、彼女の言葉を否定することはできなかった。
確かに俺は、いつもここにいた。同じマップ、同じダンジョン。擦り切れるほどに繰り返される、無機質なルーティン。
『じゃあ、俺のことを見てたってこと?』
『うん』
短く、いつも通りの肯定。
次に何を打ち込むべきか迷っていると、俺の思考を追い越すように、新しい文字列が滑り込んできた。
『パーティ、組む?』
ほんの一瞬、呼吸を忘れた。
普段なら、相手が誰であれ構わなかった。効率よくダンジョンを回れるなら、誰の誘いにでも乗った。だが、今は――どうしてだろう、その一言の重みを、自分の胸の奥で測りかねていた。
『いいよ』
承認ボタンをタップする。
システム音が鳴り、視界の位相が切り替わる。
そして、俺は初めて、そのアバターと対面した。
初期装備に毛が生えた程度の、ひどく地味なグラフィックだった。ステータス構成も、お世辞にも強いとは言えない。
なのに、そのキャラクターの立ち姿だけが、電子の海のなかで奇妙なほど静謐に澄んで見えた。
互いに、すぐには動き出さなかった。
数秒の沈黙。
どこから手をつければいいのかわからない、初対面の人間同士の、手探りの距離感。
『どこ行く?』
『どっちでもいい』
プロローグと同じ、素っ気ない拒絶のようで、その実、すべてを委ねるような台詞。俺の唇が、自嘲気味に、ほんの少しだけ綻んだ。
『いつものダンジョンでいい?』
『うん』
二つのアバターが、ゆっくりと歩き出す。
最初のうちは、すべてが噛み合わなかった。歩調は乱れ、スキルの発動タイミングはミリ秒単位でズレていく。見知らぬ他人のアカウントと同期する際に生じる、ありふれた不協和音。
それなのに、不思議と不快ではなかった。
無理に合わせる必要がない。ただ、互いの不完全さをそのままそこに置いておけるような、奇妙な居心地の良さがあった。
最初の戦闘は、散散なものだった。俺が先行しすぎ、彼女の援護が一歩遅れた。アバターのHPバーが、目に見えて削れていく。
『すまん』
『いーよ』
短く、責める色もない。かといって、慰めるわけでもない。
俺たちはそのまま、次の獲物へと向かった。
数分が経つ頃には、世界の呼吸が変わり始めていた。
言葉を交わしたわけではない。ただ、俺が彼女のタイミングに指先を合わせ、彼女もまた、俺の軌道にアバターを滑り込ませてくる。
話し合いなど経ずとも、二つの孤独なテンポが、じわじわと一つの旋律へと収束していくのがわかった。
『そのビルド、使い込んでるの?』
『うん』
『あまり見かけないな』
『不人気だから』
『なんで使ってるの?』
空白。
これまでよりも、ほんの少しだけ長い静寂が挟まる。
『落ち着くから』
その答えの背景にあるものを、俺は知らない。けれど、それ以上を訊き出す必要はないとも思った。その四文字だけで、今の俺たちには十分すぎるほどだった。
次のダンジョンへ入る頃には、時間の感覚が完全に麻痺していた。
視界の隅にある時計を見ることも、現実世界の煩わしい雑音を思い出すこともない。ただ、液晶の光と、そこから伝わってくる微かな「同期の感触」だけに意識が収斂していく。
――その途中で、彼女の動きが唐突に止まった。
アバターが、何もない空間を見つめたまま、凍りついたように動かなくなる。
俺は、その場に立ち止まって待った。
数秒。十数秒。
『離席(AFK)?』
応答はない。
俺のアバターは、彼女の隣でただ、待機モーションを繰り返している。電子世界の時間だけが、現実よりも果てしなく引き伸ばされていくようだった。
いつもの俺なら、一人で先へ進むか、あるいはそのままパーティを抜けていただろう。
けれど、俺は動かなかった。明確な理由など、どこにもないのに。
数分が、沈黙のなかに融けて消えた。
やがて、アバターが僅かに身じろぎする。
『ごめん』
『長い迷子だな』
『うん』
言い訳はなかった。俺もまた、事情を詮索しなかった。
何故だか、触れてはならない境界線がそこにあるような気がしたからだ。
ダンジョンをクリアした時、二人の動きは先ほどよりも遥かに洗練されていた。パズルのピースが、あるべき場所にすとんと収まったかのような、静かな達成感。
終わりの合図はなかった。
「gg」とも「お疲れ様」とも言わない。ただ、短い沈黙だけがタイムラインに横たわる。
お互いに、これが「終わり」ではないことを、本能的に理解していた。
『次、行く?』
数秒のラグの後、
『いいよ』
ありふれた、ただの同意。
けれどその一言は、俺をいつもより遥かに長い時間、その電子の箱庭へと繋ぎ止めるのに十分だった。
気がつけば、その日は初めて、単なる「暇潰し」のためにログインしたわけではない自分に、俺はまだ気づいていなかった。




