「第1章 見えている普通の世界」
自分の部屋に訪れる朝は、いつも朝という実感を伴わずにやってくる。
何ひとつ変わらない。
誰も待っていない。
そして、ただ時間が流れているという理由以外に、わざわざ起き出す特別な理由もない。
アラームが一回だけ鳴り、そして止まった。
素早く止めたわけじゃない。半覚醒のまま何度も繰り返してきたせいで、身体が勝手に覚えているだけだ。
07:12。
画面の角がひび割れたスマホに、その数字が浮かび上がる。
ずいぶん前からある小さなひび。
修理したことはない。
必要がないと思っているからか、あるいは……使えるうちはそのままにしておくことに慣れてしまっているからか。
ベッドの端に腰掛け、長いこと佇んでいた。
何をするでもなく。
ただ、ゆっくりと暗くなっていく画面を見つめるだけ。
いくつか通知が来ている。
大学のグループチャット。
どうでもいいメッセージ。
読んでおくべき事柄。
どれひとつとして開かなかった。
意図的に無視しているわけじゃない。
ただ、今すぐ触れなければならないほど切羽詰まったものが、何ひとつないのだ。
今日は講義がある。
それはわかっている。
時間も把握している。
だけど、知っていることと、そのために実際に身体を動かすことの間には……大きな隔たりがある。
ゆっくりと立ち上がる。
足取りはオートメーションのようだ。
何度も繰り返され、すっかり馴染んでしまったパターンをなぞるように。
蛇口から水が流れる。
冷たい。
肌に触れても、大して目が覚めるわけでもない。
洗面台の鏡は、昨日と同じ顔を映し出していた。
その前の日とも同じ。
そしてきっと……明日も変わり映えしない。
自分の人生が嫌いなわけじゃない。
けれど、心から楽しんでいるわけでもない。
すべては流れていく。
そして、俺もその流れの中で一緒に流されている。
それだけだ。
大学への道のりは、決して長くは感じられない。
けれど、短く感じられることもない。
行き交うバイク。
クラクションの音。
先を急ぐ人々の足音。
誰も彼もが目的地を持っているように見える。
あるいは、少なくとも……そう見せかけている。
俺はその間を歩く。
どちらの方向にも、自分が属しているという感覚を持てないまま。
講義はいつも通りに進む。
教授が話し、スライドが切り替わり、周囲がノートを取る。
俺は窓際の席に座っていた。
誰の目にも留まらない、ちょうどいい場所。
時折、外を眺める。
眩しすぎる昼の空。
ゆっくりと動く雲。
そこには、何かしらの意味があるのだろうか。
誰を待つこともなく、すべてがただ動き続けているということに。
机の上のスマホが、かすかに震えた。
一回だけ。
視線を落とす。
ゲームからの通知。
新しいイベント。
ログインボーナス。
本来なら、少しは惹かれるはずの小さなあれこれ。
すぐには開かなかった。
けれど、指先は必要以上に長く画面のそばに留まっていた。
興味があるからじゃない。
ただ……どうせ後で開くことになるのだと、わかっているから。
いつも通りに。
講義が終わっても、すぐには帰らなかった。
外のベンチに少しだけ腰掛ける。
何をするでもなく、ただ時間をやり過ごす。
人々が通り過ぎていく。
笑い合い、言葉を交わしながら。
その声は聞こえてくるけれど、本当の意味で耳には届かない。
ようやく、スマホを取り出した。
ゲームのアイコンはそこにある。
いつもと同じ場所。
それをタップした。
『[LOGIN]』
いつも通りの世界が広がる。
素早く、大したローディングも挟まずに。
綺麗すぎる青空。
耳に馴染みすぎた背景音。
俺のキャラクターは、前回ログアウトしたときと全く同じ場所に立っていた。
何も変わっていない。
ギルドチャットが動き出す。
メッセージがひとつずつ流れていく。
『ナオヤがオンラインになった』
『やっと来たか』
短く文字を打ち込む。
ナオヤ:
「おう」
特に話すべきこともない。
それで構わなかった。
俺たちはいつものルーティンに入る。
ダンジョン、戦闘。
ほとんど反射に近い動き。
ここでは、多くのことを考える必要がない。
何も説明しなくていい。
何者かになる必要もない。
ただ……そこにいればいい。
時間はあっという間に過ぎていく。
いつも通りに。
プレイヤーリストを開くまでは。
ただの癖だ。特別な目的があったわけじゃない。
見慣れた名前。いつもそこにいる面々。
そして――
見覚えのない名前がひとつ。
橘 レイ
指が止まった。
その名前が奇妙だったからじゃない。
ただ、そこに『いるはずがない』気がしたんだ。
ずっと前から見ていたはずなのに……どうしてか、今になって初めて気づいたような、そんな奇妙な感覚。
長いこと、その名前を見つめていた。
ステータスは、
オンライン
すぐには話しかけなかった。
かといって、すぐに無視することもできなかった。
ただ見つめる。
数秒の間。
そしてようやく、文字を打ち込んだ。
ナオヤ:
「レイ?」
返事はない。
リストを閉じようとした。
気にするほどのことでもないと、そう思って。
だが、その直前――
ひとつの小さな通知がポップアップした。
レイ:
『遅い』
息が止まった。
簡潔な言葉。
あまりにもシンプル。
だけど、どうしてだろう……。
まるで、ずっと俺を待っていた誰かのように感じられた。
必要以上に長く、その画面を見つめてしまう。
無意識のうちに、俺は返信していた。
ナオヤ:
「俺たち、知り合いか?」
数秒が過ぎる。
長くはない。
けれど、俺を待たせるには十分な時間だった。
そして――
レイ:
『うん』
たった一言。
そしてどうしてか……。
その日、ゲームを閉じるのをやめるには、それだけで十分すぎるほどだった。




