プロローグ Last Seen
液晶の淡い青光が、暗がりのなかに、しんと浮かび上がっている。
届いた文字は、いつもと変わらない。
『ログインした?』
橘レイからの、短い報せだった。
一ノ瀬直哉は、すぐには指を動かさなかった。とり立てて忙しいわけではない。ただ、急ぐ必要がないことを知っていた。彼女はどこへも行かない。そんな、確信にも似た怠惰が胸のどこかにあった。
『いま』
素っ気なく二文字だけを返すと、画面の底で三点リーダーが明滅を始めた。
点いては消え、消えては点く。
迷っているのか、あるいは何かを待っているのか。光ファイバーの網を潜ってくる、言葉にならない沈黙の質量。
『遅い』
画面の向こうの声音が、ふっと脳裏を過る。直哉の唇が微かに綻んだ。
いつもこうだ。短く、端的に。無駄な飾りをすべて削ぎ落とした、いかにもレイらしい呼吸。
『五分だけ』
それきり、応答が途絶える。
直哉は必要以上に長く、暗転しかけた画面を見つめ続けていた。待つ意味などないと知りながらも、視線を外せない。
『こっちはずっと待ってた』
ありふれた文字列だった。あまりに、ありふれている。
なのに、どうしてだろう。いつだって彼女の方が、自分よりもずっと先に世界の境界線へ辿り着いているような、そんな奇妙な焦燥が常に付きまとっていた。
思考を振り切るように、ゲームのアイコンを叩く。
すでに習慣と化した一連の動作。疑うことすら忘れたルーティン。
[LOGIN]
暗いシステム画面に、自分のアカウント名が白く浮き上がる。
その直下。
――Tachibana Rei - Online
いつもの灯。
互いにカウントダウンを始めるわけでも、明確な合図を送り合うわけでもない。ただ、冷たい電子の隙間に短い静寂が挟まる。世界が、あるべき形へと動き出すための、ほんのわずかな余白。
『ダンジョン、行く?』
数秒のラグ。
『どっちでもいい』
その言葉が、本当の意味での「どっちでもいい」を指していた試しは一度もない。
直哉は、キャラクターの初期配置点に立ったまま、ただ待った。
数秒の後、歪んだノイズと共に、眼前に見慣れたアバターが形を成していく。
同じ意匠の装備、同じ立ち姿、同じモーション。
それが、現実のレイよりもずっと確かな実体を持って、そこにあるように思えた。
二人のキャラクターが歩き出す。
言葉は交わさない。時折、彼女のアバターが不自然に立ち止まる。いつもより、その硬直は長く感じられた。
『仕事中?』
すぐに返事は来ない。電子の海を渡る時間は、現実の数秒よりも遥かに重い。
『うん』
それだけだった。
直哉はそれ以上、踏み込まなかった。もともと根掘り葉掘り訊かれるのを嫌う棘が、彼女にはある。自分もまた、その沈黙の扱い方には慣れすぎていた。
冷たいシステム音が耳の奥で鳴り響き、スキルエフェクトが視界を埋めていく。
すべては自動化された作業だった。指先が勝手に動き、敵を処理していく。だが、その単調な記号の連なりの隙間に、ふっと文字が滑り込んできた。
『今日は長く繋がってるね』
応答はない。
放置(AFK)だろうか。いつものことだ。直哉がそう結論付けようとした矢先、画面が更新される。
『今日だけ』
指先が止まった。
『なんで?』
今度の空白は、これまでになく深かった。
重い。
無意識のうちに、直哉は息を詰めて画面を凝視していた。
『べつに』
何ひとつとして答えていない、ただの拒絶。
それでも、直哉は言葉を重ねることをしなかった。
なぜなら、予感があったからだ。これ以上、この薄氷を踏み抜けば――彼女は二度と、自分のタイムラインに戻ってこなくなるのではないか、という。
幕引きは唐突だった。
お互いに「お疲れ様」も「またね」もない。ただ、接続の糸が解けるだけの、短い断絶。
『落ちるね』
その文字列が、網膜の奥に妙に生々しく焼き付いた。
『了解』
簡潔な、いつも通りの記号。
どこにも、おかしなところはない。はずだった。
だが、画面を閉じるその直前、視界の隅が小さな違和感を捉えた。
彼女の名前の横にあるステータス表示が、静かに、その色を変えていく。
――Last seen: just now
その時の直哉は、深く考えもしなかった。
だって、当たり前だ。
明日になれば、また彼女はいつもの時間にログインしてくる。そして自分は、いつもの場所で待っている。
ただ、それだけの日常が、これからもずっと続いていくのだと、信じて疑っていなかったから。




