「第8章 少しずつ変わる温度」
物事が変質していく時、それは往々にして、音も立てずに忍び寄ってくる。
分かりやすい兆候があるわけではない。警告のランプが灯るわけでもない。ただ、肌に触れる空気の密度が、どこか違っている。
それはまるで、室内の温度が自覚を伴わないほど緩慢に降下していくようなものだ。
誰も気づかない。誰も声を上げない。
そうしてある瞬間、ふと動きを止めた時に――初めて、自分たちが凍えそうな冷気のなかに取り残されている事実に気づくのだ。
あの日から。
あの具体的な日付が二人のタイムラインに刻まれてから、俺はそれまで気にも留めなかった些細な数字ばかりを目で追うようになっていた。
彼女の接続時間。パルスが返ってくるまでの秒数。記号の選び方。
以前なら単なるネットワークの遅延や手癖として片付けていたはずのものが、今は、別の意味を孕んだ重苦しい記号として胸に引っかかる。
約束を交わした翌日、彼女のランプは終日、灰色の沈黙に閉ざされたままだった。
珍しいことではない。彼女が毎日現れるわけではないことなど、疾うに知っている。
分かっているはずなのに、俺はいつもより何度もスマートフォンの液晶を叩いていた。ただ確かめるためだけに。あるいは――意味のない猶予を引き延ばして待つために。
二日目。
唐突に、その四文字が色の世界へ帰還した。
――Tachibana Rei - Online
俺はすぐにキーボードを開いた。呼吸を整えるための、数秒の空白。
『お前』
応答はない。
俺は液晶の底を見つめて待った。数秒。いつもなら、どれほど素っ気なくとも何らかのリアクションを返してくるはずの時間。それが、引き延ばされた静寂のなかに融けていく。
やがて。
『うん』
落ちてきた二文字は、いつもと同じ形状をしていた。けれど、そこから伝わってくる手触りは、どこか酷く遠い場所から響いているように感じられた。
『今日、行けるか?』
具体的な行先は口にしなかった。そんな必要はなかった。
空白。引き延ばされる秒針。
『行ける』
簡潔な、それだけの一言。
㠪の感情の起伏を読み取るためのインクは、そこには一滴も含まれていなかった。
俺たちはいつものようにダンジョンへ足を向けた。
だが、最初の歩行の時点で、アバターの動きはかつてないほどに強張っていた。
すでに擦り切れるほど共有してきたはずのテンポ。なのに、どうしてだろう、二人のキャラクターは互いの位置を見失ったかのように、歪な軌道を描いていく。俺がタイミングを合わせようと指先を抑えても、彼女のアバターはそれよりもさらに遅れて動く。噛み合わない不協和音。
『ラグいか?』
『ううん』
即座の否定。あまりに速すぎる、あらかじめ用意されていたかのような応答。
俺たちはそのまま先へ進んだ。
目の前では激しい戦闘が繰り広げられ、スキルエフェクトの残像が視界を埋め尽くしていく。けれど、その狂騒のなかにあって、世界の中心は酷く空虚に冷え切っていた。そこにいるアバターの肉体のなかに、本物の「意識」が滞留していないかのような、薄気味悪い虚無感。
中層の通路で、彼女のアバターがまた唐突に硬直した。
彫像のように動かないグラフィック。
俺はただ、その背中を見つめて待った。いつものことだ、と自分に言い聞かせながら。
㠪、今の俺は、無意識のうちに画面の隅のデジタル時計を見つめていた。
秒刻みの数字。分刻みの針。その推移が、これまでになく鮮明に、そして残酷なほど長く感じられる。
『離席(AFK)?』
応答はない。
俺のアバターは静止したままだが、脳細胞は狂ったように思考を巡らせていた。
どうして、こんなにも違って聴こえるのだろう。彼女が動かなくなるのはこれが初めてではないというのに。
数分の後、アバターが僅かに身じろぎする。
『ごめん』
『気にするな』
いつもの符牒。そこで終わりにすればいいものを、俺の指先は勝手に次の文字列を送信していた。
『最近、本当に忙しいんだな』
空白。より深く、重い静寂。
『うん』
それだけだった。
㠪は画面のこちら側で、その二文字をただ睨みつけることしかできなかった。
普段なら、その素っ気なさで納得できていた。けれど、今の俺には、その壁がどうしても冷たすぎる。
『……まだ、やるのか?』
何についての問いなのか、俺は明記しなかった。だが、彼女がその意味を理解しないはずがない。
長い、長いラグ。
これまでのどんな空白よりも、過酷で、息苦しい沈黙が光回線を伝ってくる。
俺は待った。生まれて初めて、俺はその応答を待つという行為そのものに、耐え難い不快感を覚えていた。
やがて。
『やるよ』
小さく、胸の空気を吐き出した。
けれど、安堵の情念はどこにも湧いてこなかった。
『了解』
それ以上、会話を重ねることはしなかった。具体的なディテールを詰めることも、約束の内容を掘り下げることもしない。
俺たちはただ、いつもより遥かに迅速に、そして寒々しい静寂のなかで残りのダンジョンを攻略した。
クリアの報酬を受け取り、中央広場に戻っても、二人の間に言葉は生まれなかった。
液晶のなかに佇むアバターを見つめる。訊ねたいことは山ほどあった。けれど、そのどれひとつとして、この凍りついたタイムラインに投入していい正しい言語だとは思えなかった。
やがて。
『落ちるね』
『了解』
決まりきった、いつも通りの記号のやりとり。
彼女の名前がリストからふっと掻き消え、世界は灰色の世界へと反転する。
――Offline
俺は暗転しかけた画面を、必要以上に長く見つめ続けていた。すべてがこれまで通りであるのだと、自分自身を強弁して納得させるかのように。
けれど、何かが決定的に違っていた。
その歪みの正体が何なのか、今の俺には言葉にすることができない。
その夜、俺はやはりすぐに接続を切ることができなかった。
広場の片隅にアバターを座らせたまま、ただ無機質なドットの夜景を眺めている。
誰かが来るのを待っているかのような姿勢。だが、この世界の何処からも、もう誰も現れないことくらい、最初から分かっている。
生まれて初めて、この馴染み深いルーティンが、俺を安息へと導いてはくれなかった。
胸の奥をじりじりと侵食していく、微小な違和感の棘。
彼女は、確かにそこにいた。リストの緑色のランプも、交わした言葉も、確かに存在していたはずだ。
なのに、どうしてだろう。
彼女は、あのいつもの場所に確かに立っていながら――その実、俺の手の届かない遥か彼方の深淵へと、ゆっくりと、音も立てずに遠ざかりつつあるような。
一歩も動いていないはずのその背中が、目眩がするほどに、引き延ばされていくような。
そんな底冷えする予感だけが、深夜の自室に、いつまでも重く漂い続けていた。




