「第9章 小さな違和感」
奇妙な予感というものは、決して一度に、分かりやすい形を成して訪れるわけではない。
それは砂時計の底に積もる砂塵のように、少しずつ、少しずつ、己の領域を侵食していく。最初は取るに足らない、注意を払う価値すら見出せないほどの微小な染み。あまりに日常的で、あまりにありふれた瞬間のなかに紛れ込んでいるからこそ、人間はそれを簡単に見落とす。
そうしてある時、ふと立ち止まった拍子に気づくのだ。
見過ごしてきたはずの偶然の破片が、すでに無視できないほどの質量を持って、足元に積み上がっていることに。
いつからそんな些細な数字や記号を、俺が凝視するようになってしまったのか、今となっては正確な起点すら思い出せない。
二人の対話が、以前よりも目に見えて短くなった頃からだろうか。
あるいは、パルスが返ってくるまでの沈黙が、引き延ばされるようになった頃からか。
いや、あるいは――彼女の残していった過去の文字列を、俺が何度も、不自然なほど読み返すようになってしまったあの夜からかもしれない。
その夜も、俺はいつもと同じ手癖で世界に繋いだ。
[LOGIN]
眼前に開帳される電子の箱庭。
㠪、アバターを前進させるより早く、俺の指先はプレイヤーリストのウィンドウを叩いていた。
――Tachibana Rei - Online
緑色のランプは灯っている。
それなのに、どうしてだろう。いつものように胸の奥を滑り落ちていくはずの安堵の情念が、その夜はどこにも湧いてこなかった。
『お前』
空白。いつもより長い、光回線の躊躇。
『うん』
返ってきた二文字を確認してから、俺はスマートフォンの隅にあるデジタル時計に目をやった。
二二時四十七分。
深夜と呼ぶにはまだ早く、ネットの住人が活動を活発化させる、ありふれた時間帯。なのに、そんな記号にすら俺の意識は細かく引っかかり、疑いの目を向けてしまう。
『仕事中か?』
短いラグ。
『うん』
同じ応答。いつだって、寸分の狂いもなく繰り返される平坦な記号。
俺たちはそのまま、いつも通りのダンジョンへ足を向けた。
アバターの歩調は相変わらず噛み合わず、スキルの発動タイミングはミリ秒刻みでズレ続けている。今の俺は、その不協和音をそのままそこに置いておくことに、すっかり慣らされていた。
いや、受け入れてしまっていた、と言うべきか。
激しい乱戦の最中、視界の隅のログウィンドウに、ぽつりと不自然な文字列が弾けた。
『待って、ちょと』
俺の指先が、キーボードの上で凍りついた。
『ちょと』
アバターを安全圏まで後退させ、俺はその三文字を網膜の裏で何度もなぞり直した。
単なるタイピングのミス、いわゆる「タイポ」だろう。誰にでもある、取るに足らない誤入力。
『ちょっと、か?』
空白。
『うん』
㠪からの、事情の説明はない。
俺は画面のこちら側で、彼女には決して見えないはずの首を、小さく縦に振った。
彼女のアバターは、通路の真ん中で彫像のように硬直している。
俺は静止したまま待った。いつものことだ。
なのに、どうしても視線がチャットログの最下部から離れてくれない。
『ちょと』
文字の欠落。
些細な、本当に些細なエラー。それなのに、どうしてだか俺の内の直感が、それは彼女の「手癖」から最も遠い場所にある異物なのだと、底冷えする警報を鳴らし続けていた。
数分の後、アバターが息を吹き返す。
『ごめん』
『気にするな』
そのまま、俺たちは残りの敵を処理していった。
ダンジョンはいつもより遥かに迅速に、そして寒々しい静寂のなかで消化された。
中央広場に戻っても、タイムラインは凪いだままだ。俺は無意識のうちにチャットのログウィンドウを掴み、過去の文字列を上へとスクロールさせていた。
並んでいるのは、見慣れた素っ気ない対話の歴史。
短く、端的に、無駄な装飾を削ぎ落とした言葉たち。すべては正常であるように見えた。
なのに、それらをもう一度、最初から読み返していくと、奇妙な眩暈に襲われる。
書かれている文章は何ひとつ変わっていない。
それなのに、何かが――決定的な何かが、そのドットの隙間から完全に「喪失」してしまっているような、薄気味悪い違和感が拭えなかった。
『お前、疲れてるだろ』
空白。
『ううん』
即座の否定。あまりに速すぎる応答。
『最近、タイポが多いぞ』
送信ボタンを叩いた瞬間、俺は自分の短慮さに息を詰めた。踏み込みすぎだ。あまりに直接的で、剥き出しの棘を含んだ文字列。
空白。引き延ばされる秒針。
俺は息を止めて待った。
『うん』
ただ、それだけ。
言い訳も、照れ隠しも、反論もない。
俺は発光する硝子板を、必要以上に長く見つめ続けた。いつもの彼女なら、ここで話を切り上げるためのもう一言を付け足すか、あるいはもっと別の、生きた記号を返してくるはずだった。
㠪、今のタイムラインには、ただ二文字の残滓が浮遊しているだけだ。
数分が、静寂のなかに融けて消えた。
不意に、新しいログが跳ねる。
『あなた、まだいるの?』
俺の心臓が、微かに位置をずらした。
『ああ』
『もう待たなくていいよ』
指先が止まる。その文字列の意味を、脳細胞が拒絶するように硬直する。
『なんで?』
空白。これまでのどんな遅延よりも、深く、過酷な沈黙。
㠪はただ待った。
『なんでもない』
何ひとつとして答えていない、ただの扉の閉鎖。
俺は液晶を見つめ続けた。その一言は、ひどく軽薄な足取りでタイムラインに滑り込んできたように見える。けれど、その実、彼女の胸の奥にある「何か」を、送信の直前で慌てて引き戻したかのような、歪な未練の響きを持っていた。
俺たちはもう、次のダンジョンへ行こうとはしなかった。
中央広場の境界線で、二つのキャラクターを並べたまま、静止している。
『明日、予定通りでいいんだよな?』
何についての約束なのか、俺は明記しなかった。だが、彼女がその意味を理解しないはずがない。
長い、長いラグ。
光回線を伝ってくる、重苦しい焦燥感。
『うん』
いつもと同じ肯定の記号。
なのに、今日のその二文字には、俺の心を安息へと導くためのインクは一滴も含まれていなかった。
数秒の後、画面が更新される。
『落ちるね』
『了解』
彼女の名前がリストからふっと掻き消え、世界は再び灰色の世界へと反転する。
――Offline
俺はすぐにアプリを終了させることはしなかった。
ただ消灯したプレイヤーリストを睨みつけ、それから、もう一度チャットログを開いた。
ゆっくりと、網膜の裏でその形状を確かめるように、最初から読み返していく。
『待って、ちょと』
『もう待たなくていいよ』
『なんでもない』
どれも、ありふれた小さな言葉の連なり。
おかしなところなど、何処にもない。はずだった。
それなのに、どうしてだろう。それらの記号のすべてが、何かもっと大きな、完結することのなかった「巨大な文章」の、ちぎれた断片のように思えてならなかった。
言いかけて、そのまま冷たい電子の底へ沈めてしまった、未完の独白。
あるいは――本当は誰にも受け取られたくなかった、行きあてのない遺言のように。
俺はスマートフォンをベッドの上に放り出し、仰向けになって、染みのついた天井を見つめた。
しん、とした深夜の静寂。
生まれて初めて、俺の脳細胞は、全く別の領域に向かって思考を巡らせ始めていた。
彼女が忙しいとか、回線のラグが酷いとか、そんな都合のいい表面的な理由ではない。
俺の目には見えない、この液晶の壁の向こう側で――何かが、決定的な崩壊を始めているのではないか、という底冷えする予感。
そして俺がどれほど言葉を尽くし、光回線の底を 漁ったところで、その真相が直接的な言語で説明されることは決してないのだという、残酷な確信。
俺はただ、液晶の放つ淡い青光のなかで、立ち尽くすことしかできなかった。
そしてその時、俺はまだ、気づいていなかったのだ。
自分がその違和感の正体に触れるには、すでに、あまりにも遅すぎたのだということに――。




