「第10章 見つけてしまったもの」
好奇心という純粋な情念が、その軽やかさを失って別の何かに変質する境界線がある。
もはや単なる「知りたい」という欲求ではない。胸の内でささやかな疑問を弄ぶ段階は、とっくに通り過ぎていた。それは執拗に脳髄を 抉開け、無視しようとすればするほど、排他的な質量を持って意識の真ん中に居座り続ける。
――そこにあってはならない、不快な異物。
その夜、俺はスマートフォンの画面を前にしながら、どうしてもゲームの起動アイコンをタップすることができなかった。
筐体を握る指先が、目に見えない拒絶に縛られている。いつもなら無意識のうちに通り抜けていたはずの電子の門が、今は酷くおぞましい奈落の入り口のように思えてならなかった。
数秒の躊躇の後、俺は指先を別の座標へと滑らせた。
ブラウザの起動。
これまで一度として、彼女に対して行おうとはしなかった、現実の側からの介入。
最初は、何を入力すべきか分からなかった。「橘レイ」という文字列は、あまりに一般的で、あまりに広範すぎた。
検索ボタンを叩くと、膨大な情報の濁流が網膜になだれ込んできた。
見知らぬ他人のSNSアカウント、同姓同名のキャラクター、いくつかのイラストレーターの作例。どれひとつとして、あの液晶の底の素っ気ない二文字と結びつく確証はない。
俺は一度ブラウザを閉じ、小さく溜息をついた。やはり無駄な勘違いなのだ。ただの過剰歯車。俺が一人で深読みをして、自滅しかけているだけだ。
だが、完全に思考をシャットダウンする直前、脳裏の隅でひとつの符牒が跳ねた。
『絵』
俺は呪われたように再び画面を開き、今度はより具体的なインクを検索窓に流し込んだ。
――橘レイ 漫画
出力された結果は、先ほどとは決定的に違っていた。
件数は劇的に絞られ、情報の純度が跳ね上がっている。そのなかにひとつだけ、奇妙に俺の視線を吸い寄せるリンクがあった。
㠪は商業用の大手プラットフォームではなく、個人のドメインで構築された、ひどく小規模なポートフォリオサイトだった。
タップする。
白一色で塗り潰された背景に、削ぎ落とされたシンプルなデザイン。
そこに、いくつかの画像データが並んでいた。白と黒のインクだけで構成された、漫画のネーム、あるいは完成された原稿の数々。
俺は画面をゆっくりと、指先を震わせながらスクロールしていった。
繊細な、けれどどこか硬質な極細の描線。無駄のない構図。そして、そこに描かれたキャラクターたちの表情。
――生きている、と思った。
どこかで見覚えがあるわけではない。なのに、どうしてだろう。この白黒の絵のなかに漂う「空気の冷たさ」が、液晶の底で幾度となく経験してきたあの重い沈黙と、気味が悪いほどに合致していた。
スクロールの手が、ページの最下部でピタリと止まる。
――橘レイ
その四文字が、著作権の表記として白地に刻まれていた。
俺は長い間、その文字列を凝視し続けた。他人の空似かもしれない。同姓同名の絵描きなど、この世界にはいくらでも転がっているはずだ。頭では分かっている。
なのに、俺の肉体は、そのページを閉じることを頑なに拒んでいた。
俺はある短編の作品をクリックした。
コマからコマへ、視線が滑っていく。それは、一人の人間が暗い自室のなかで、ただ静かに孤独を消化していく物語だった。
セリフはほとんどない。他愛のない日常の仕草。自動化されたルーティン。
そして――ひとつのコマに、俺の視線が縫い付けられた。
描かれていたのは、主人公のキャラクターがほんの一瞬だけ手の動きを止め、半分だけ開いた窓の向こうの、灰色の世界を見つめているカット。
理由など分からない。けれど、俺の内の直感が、冷たい爪先で心臓を 撫でまわしたような戦慄を覚えた。
あまりにも近すぎる。まるで、自分の内の空洞を、見知らぬ誰かに覗き込まれながらスケッチされているような、薄気味悪い感覚。
俺は視線をさらに下へと落とした。
タイムスタンプ。作品の公開日付。
瞬間、俺は不自然に眉をひそめた。
日付は――一年以上も前のものだった。
俺は暗闇のなかで、静かに脳細胞を回転させた。もし彼女が今もなお、現在進行形で描き続けているのだとしたら、ここには新しい更新の痕跡が残されているはずだ。少なくとも、もっと直近のログが。
㠪のページに戻り、他の作品のタイムスタンプを確認していく。
すべてが、同じ時期に集中していた。あるいは、それよりもさらに過去の、引き延ばされた時間。
最新のデータは何ひとつない。それ以降の足跡は、完全に途絶えている。
発光する画面を見つめる俺のなかに、先ほどとは異なる質の、底冷えする違和感が形を成しつつあった。
噛み合わない。世界の数式が、どこかで決定的にバグを起こしている。
俺は新しいタブを開き、今度はその名前をさらに狭い領域の掲示板で検索した。
いくつかのログがヒットする。すでに過疎化し、誰も書き込まなくなった古いスレッド。
クリックして、過去の残滓を 漁る。
そこでは、少数の住人たちが、先ほどのポートフォリオの作品について淡々と語り合っていた。線の美しさを称賛し、独特の作風について考察を交わす、ありふれたファンのコミュニティ。
スクロールしていく。秒針が、過去へと巻き戻されていく。
そして、そのスレッドの最下部。かなり古い時期に書き込まれた、最後のコメント。
『突然筆を折っちゃったの、本当に惜しいな』
指先が凍りついた。
さらに、その直下の数行。
『なんか事件に巻き込まれたって噂だけど……詳細は分からないまま。今どうしてるんだろ』
ドクン、と心臓が不快な重低音を立てて跳ねた。
俺はその文字列を、網膜の裏で何度も、何度もなぞり直した。
具体的なディテールは何ひとつ書かれていない。事情の解説もない。ただの出所不明な噂の断片。未完の、完結することのない情報のゴミ。
俺は逃れるようにブラウザを強制終了させ、スマートフォンのホーム画面へと戻った。
静寂。
液晶のなかに浮遊する、あの特定の四文字。
――Tachibana Rei
何を信じればいいのか、今の俺には分からなかった。明確な証拠などどこにもないし、すべてのパズルは未だに形を成していない。
けれど、これまでただの「薄気味悪い予感」でしかなかった影が、今、急激な輪郭を持って俺の前に立ち上がろうとしていた。
時計の針は――二三時十八分。
俺は誘われるように、ゲームのアイコンをタップした。
[LOGIN]
瞬時に再構築される電子の箱庭。
開帳されたプレイヤーリスト。
――Tachibana Rei - Online
灯る、いつもの緑色の光。
俺は、凍りついたまま動けなくなった。
バックライトの青光が、自室の暗闇を白々しく照らし出している。
キーボードを開こうとしても、指先が石のように重くて動かない。
脳細胞のなかで、ふたつの絶対的な矛盾が衝突し、不協和音を奏でていた。
今さっき現実の網の底で見つけてしまった、一年以上前に「途絶えた」はずの存在。
そして今、目の前の画面で、確かに「生きている」データとして同期を繰り返している、橘レイという記号。
世界が、ミリ秒単位でズレていく。
そして生まれて初めて、俺はリストのなかに彼女の生存を確認したその瞬間。
安堵すべきなのか、あるいは――目の前の液晶の壁に対して、本物の「恐怖」を抱くべきなのか、その判別すら失っていた。




