「第11章 触れられない距離」
そこには、歩幅によって測ることのできない距離が存在していた。
時間の数式によって計算することもできず、どれほど平易な言語を尽くしたところで、その深淵を説明することは叶わない。
たとえ二人の人間が、寸分の狂いもなく同じ地平、同じ座標に立っていたとしても――決して交わることなく厳然と横たわり続ける、絶対的な隔絶。
俺は今でも、あの白一色のページを開くことがある。
ほんの時折だ。長くは見ない。指先が硝子板に触れるのは、わずか数秒。
ただ、そこに刻まれた事実が幻覚ではないと確かめるためだけに。自分の網膜が見誤ったわけではないのだと、己の腑に落とすためだけに。
あの特定の四文字。そして、その下に不発弾のように残された、過去の残滓。
頭から信じ切ったわけではなかった。かといって、何かの間違いだと拒絶することもできなかった。
俺はただ、その不快なパズルのピースを、脳細胞の最も深い死角へと仕舞い込んでいた。未完の、完結することのない宿題として。
その夜、俺はいつもの手癖で世界に繋いだ。
[LOGIN]
再構築される電子の箱庭。
だが、俺はすぐにプレイヤーリストのウィンドウを叩くことをしなかった。
生まれて初めて、俺はそのルーティンを意図的に遅延させていた。数秒の猶予。まるで、目の前の扉を開くことで、取り返しのつかないバグが世界に発生するのを恐れるかのように。
やがて、逃れるように指先を滑らせる。
――Tachibana Rei - Online
俺はその四文字を、じっと睨みつけた。
胸を掠めたのは、これまでの平坦な安堵ではなかった。もっと別の、内臓を冷たい爪先で 撫でまわされるような、説明のつかない不快な焦燥感。
俺はチャットボックスを開いた。一本のカーソルが、液晶の底で無機質な明滅を繰り返している。
『レイ』
空白。光回線が、いつもより長い躊躇を孕んで引き延ばされる。
『うん』
返ってきたのは、いつもの二文字。
なのに、そのドットの並びから伝わってくる手触りは、これまでよりも遥かに遠い、奈落の底から響いているように思えてならなかった。
俺は発光する硝子板を見つめ続けた。
訊ねたいことは山ほどあった。あのポートフォリオサイトのこと。そこに残されたインクの線。そして、あのスレッドの最下部に転がっていた、不穏な噂のゴミ。
けれど、そのどれひとつとして、この凍りついたタイムラインに投入していい正しい言語だとは思えなかった。
『仕事中か?』
短いラグ。
『うん』
同じ応答。寸分の狂いもなく繰り返される、自動化された記号。
俺は小さく息を吸い込み、そして吐き出した。次に指先が紡ぎ出した文字列は、これまでのどんな言葉よりも重い質量を伴っていた。
『お前、昔ネットに絵を上げてたことあるか?』
パルスが送信された瞬間、俺の身体は彫像のように硬直していた。
空白。
より深く、より過酷な沈黙が、タイムラインを支配していく。俺は息を止めて待った。世界の秒針が、耳の奥で嫌な金属音を立てて速度を上げる。
やがて。
『あるよ』
㠪からの応答は、ひどく簡潔だった。
付け足された言い訳も、飾り気もない。だからこそ、その文字の冷たさに、俺の心臓は不快な重低音を立てて跳ねた。
『その時も、同じ名前だったのか?』
空白。先ほどよりも、さらに引き延ばされる時間。
俺は待った。けれど、新しいパルスは届かない。
五秒。十秒。それ以上。
明滅するカーソルは、凍りついたようにその位置から動かなかった。
『レイ?』
数分の後、ようやく液晶が更新される。
『関係ない』
俺は息を詰めた。
㠪は拒絶ではなかった。けれど、肯定でもない。ただの、扉の閉鎖。
『見つけちゃったんだ』
理性のフィルターをすり抜けて、告白の文字列が指先から滑り出していた。
送信ボタンを叩いた瞬間、世界の色が致命的に変質していくのが分かった。もう引き返せない一線を、俺の狭量さが踏み抜いてしまったのだ。
空白。これまでのどんな遅延よりも、重く、息苦しい沈黙。
応答はない。
生まれて初めて、俺はこの冷たい電子の対話のなかで、自分が完全な「一人」の暗闇に取り残されているのだという事実を、あまりにも明瞭に自覚していた。
『お前のことだ』
完結することのない文字列が、タイムラインの底に不発弾のように残される。
秒針は淡々と進んでいく。
やがて。
『やめて』
㠪の指先が止まる。
液晶の放つ淡い青光を、俺はただ凝視することしかできなかった。
『なんで?』
空白。
引き延ばされる秒数。俺は喉を乾かせながら、次の波形を希求していた。
『いいから』
ひどく静かな、それゆえに絶対的な拒絶。
声を荒らげているわけではない。ただ、これ以上の介入を頑なに阻むように、目の前の扉を静かに閉ざすための響き。
俺は長い間、その文字列を見つめ続けた。
『……あれ、お前なんだろ?』
言葉は形を成して、送信された。
言い訳も、照れ隠しもない。剥き出しの本気が、光ファイバーの網を潜っていく。
空白。
それは過酷なほどに長く、引き延ばされた沈黙だった。通常の仕様を逸脱した、底冷えするような時間。
返事は来ない。もう二度と、彼女のアカウントから新しいログが出力されることはないのではないか。そんな絶望が脳髄を 抉開けそうになったその時、画面が更新された。
『私はまだ、ここにいるよ』
俺は、凍りついたまま動けなくなった。
㠪の三文字は、俺の問いに対して何ひとつとして答えていなかった。
何ひとつ答えていない、ただの拒絶。
なのに、どうしてだろう。その言葉は、まるで世界のすべてを肯定し、すべての事情を説明し尽くしてしまったかのような、不気味な質量を持って俺の胸の真ん中に突き刺さった。
『俺が訊いたのは、そういうことじゃない』
短いラグ。
『知ってる』
俺は液晶を見つめ続けた。
胸の奥にある澱が、泥のように足元へ溜まっていく。
言葉の力で、彼女をこの見えない硝子の壁の向こう側から引きずり出してしまいたかった。明確な答えを、本物の確証を求めて、踏み込みたかった。
けれど、俺の内の何かが、それを頑なに制止していた。
予感があったのだ。これ以上、この薄氷を踏み抜けば――二人の間にあるこの歪な日常は音を立てて崩壊し、二度と元の形には戻らなくなるのではないか、という。
俺たちはもう、会話を重ねることをしなかった。
ダンジョンへ行くことも、他愛のない雑談に戻ることもない。ただ中央広場の片隅で、二つのキャラクターを並べたまま、静止していた。
異なる液晶の、それぞれの暗闇のなかで。
数分の後。
『落ちるね』
事情の説明も、終わりの符牒もない。ただの、糸の切断。
『……』
打ち込みかけたドットの三点リーダーを消去し、俺は送信ボタンから指を離した。
彼女の名前がリストからふっと掻き消え、世界は再び灰色の沈黙へと反転する。
――Offline
俺は画面を閉じなかった。いつもより長い時間、無機質な硝子板の輝きを凝視し続けていた。
何も変わっていない。はずだった。けれど、そこにはもう、以前の日常の破片すら残されてはいなかった。
その夜、俺はいつまでも接続を切ることができなかった。
ゲームをプレイするためではない。ただ、どのタイミングでこの電子の海の底から浮上すればいいのか、その座標を見失ってしまったからだ。
㠪のアバターは同じ場所に立ち尽くしている。けれど生まれて初めて、俺はリストの消灯に対して「誰かを待っている」という感覚を抱けずにいた。
俺はただ……どこへ向かって歩き出せばいいのかが分からなかった。
しん、とした深夜の静寂のなかで、たった一言だけが、消えない澱のように脳裏を回り続けている。
『私はまだ、ここにいるよ』
本来なら、俺の心を安息へと導くはずの、優しい肯定の台詞。
なのに、どうしてだろう。その言葉を反芻すればするほど、彼女の気配は光回線の彼方へと――酷く、果てしなく遠ざかっていくような、底冷えする眩暈だけが俺を支配していた。




