「第12章 もう戻れないところまで」
この世界には、決して見つけてはならない物事が存在する。
それらが巧妙に隠蔽されているからではない。むしろ逆だ。あまりに無防備に、剥き出しのままそこに転がっているからこそ、一度でもその輪郭を視界に収めてしまえば――人間は二度と、「知らなかった頃」の無垢な自分を装うことができなくなる。
あの日を境に、俺はかつてと同じ純粋さで電子の箱庭を開くことができなくなっていた。
接続を拒絶しているわけではない。だが、今の俺がアプリを起動する時、液晶の光と共に、別の重苦しい「何か」が必ず自室の闇に滑り込んでくる。
ひとつの巨大な、解答を持たない疑問。
どれほど無視しようと試みても、脳髄の最も鋭利な場所に居座り続け、決して消えてはくれない澱。
その夜も、俺は冷たい硝子板に指を滑らせた。
[LOGIN]
再構築される世界。しかし、網膜に映るドットの色彩は、どこか白々しく退屈なものに変質していた。
プレイヤーリストを開く。
――Tachibana Rei - Offline
灯らないランプ。灰色の沈黙。
俺は数秒間、その空欄をじっと見つめてから、ウィンドウを閉じた。アバターを前進させる気にはならなかった。ダンジョンを攻略する理由も、この仮想空間を彷徨う必然も、今の俺には見出せない。
代わりに、俺は再び現実の網の底へと潜っていった。
あの白一色のポートフォリオサイトは、変わらずそこに存在していた。新しい更新の足跡はない。タイムスタンプは凍りついたままだ。
俺はある短編のネームを、今度はこれまでよりも遥かに遅い速度で、一コマずつ貪るように読み進めていった。見落としていた微小なインクの染みを、彼女の排他的な暗号を暴き出すかのように。
そして、ひとつのページで指先が止まる。
描かれていたのは、ひどく単純な日常の構図だった。主人公のキャラクターが、作業机の前で僅かに前傾姿勢を取っている。周囲には順序を失った原稿用紙が乱雑に積み重なり、その傍らで、小さな液晶画面が淡く発光していた。
――似ている。あまりにも、酷似している。
俺は網膜が 擦り切れるほどにそのコマを凝視した。それはもはや、単なる創作の絵空事には見えなかった。彼女自身の剥き出しの生活、その呼吸の残痕。
コマの枠外、余白の隅に、細い万年筆の文字で一言だけ書き添えられていた。
『最後の締め切り』
不自然に眉をひそめる。
『最後』
ありふれた単語のはずだった。なのに、その2文字が持つ剥き出しの質量に、俺の胃の奥がじりじりと焼けるように 竦む。
他のページを 漁り、公開日付を執拗に確認していく。やはり、すべてが同じ時期の境界線で唐突に途絶えていた。それ以降の時間には、何ひとつとしてデータが存在しない。
俺はブラウザのタブを切り替え、例の過疎化した掲示板のスレッドへと戻った。
今度は、過去のログをさらに深く、辛抱強くスクロールしていく。無無機質な住人たちの他愛のない憶測。線の美しさへの称賛。
その澱みのなかに、周囲よりも僅かに長い、一つの書き込みが転がっていた。
俺の視線が、そこに縫い付けられる。
『確かあの時期、彼女の住んでた地方で小さな震災があったよね。規模は小さかったけど、古い建造物がいくつか倒壊したっていうニュース。彼女もそれに巻き込まれたんじゃないかって噂されてたけど……結局、公式な発表は出ないままだったな』
指先が、完全に凍りついた。
次の行へ視線を移すことができない。目の前の発光する硝子板を見つめたまま、俺の脳細胞は一つの致命的なエラーを起こしていた。
震災。建物の倒壊。
俺は小さく、胸の空気を吐き出した。ばかげている。ただのインターネットのゴミ溜めに転がっていた、出所不明の噂話に過ぎない。
名前。描線。一年以上前に停止したタイムスタンプ。そして、この不穏な残滓。
――そして今、毎晩のように冷たい電子の網を潜って、俺と言葉を交わし合っている「橘レイ」という存在。
俺は一度、強く目をつむった。
違う。そんなはずはない。確証など何処にもないのだ。すべては単なる偶然の重なりであり、他人の空似による勘違いだ。頭のなかで、必死に理性の数式を組み立てて現実を擁護しようとする。
けれど、目をあけて再び液晶を睨みつけた時、己の内の直感が、残酷なまでの明瞭さで囁きかけていた。
パズルのピースは、あまりにも精密に噛み合いすぎている、と。
時計の針は――零時十二分。
俺は呪われたようにゲームのアプリを起動した。
[LOGIN]
開帳されるプレイヤーリスト。数秒のラグ。
やがて、その四文字が静かに緑色へと反転する。
――Tachibana Rei - Online
ドクン、と心臓が不快な重低音を立てて跳ねた。
俺はその名前を、これまでになく長い時間、ただ凝視することしかできなかった。すぐにチャットウィンドウを開くことも、アバターを動かすこともできない。
世界のプロトコルが、どこかで決定的に狂っている。その明白な違和感が、液晶の向こう側から剥き出しの冷気となって溢れ出していた。
㠪、その文字は、確かにそこに「実在」している。
俺は凍りつく指先で、チャットボックスを開いた。
『レイ』
空白。引き延ばされる秒針。
『うん』
返ってきたのは、いつもの二文字。
なのに、今の俺には、そのドットの形状をこれまでと同じ意味として読み取ることが、どうしても不可能なものに思えた。
『お前、いまどこにいるんだ?』
パルスが回線を流れた瞬間、その問いがこれまでの雑談とは決定的に異なる一線を踏み抜いたのだと、己の肌が察知していた。
長い、重苦しいラグ。
『ここ』
最初の夜と同じ、簡潔な肯定。
けれど、その言葉の響きは、もうあの頃と同じ平坦さを保ってはいなかった。
『ここって、どこだよ』
空白。先ほどよりも、さらに息苦しい静寂。
『いつもの場所』
俺は発光する画面を睨みつけ続けた。何も変わっていない電子の箱庭。何も変わらない、地味なアバター。なのに、世界のすべてが別の色に染まっていくような眩暈がする。
『レイ』
短いラグ。
『うん』
俺は息を深く吸い込み、喉の奥で冷え固まりかけていた言語を、無理やり押し出した。
『お前……本当に、大丈夫なのか?』
これまで投げかけてきたどんな言葉よりも、過酷な質量を孕んだ文字列。
長い、長いラグ。
俺は待った。胸の奥にある情念は、もう単なる「心配」などという生易しい言葉では括れなくなっていた。
やがて。
『私はここにいるよ』
㠪の指先が、完全に凍りついた。
ありふれた、単純な一言。
けれど今の俺には、その言葉を信じることも、あるいは何事もないと笑い飛ばすことも、どちらも等しく不可能なことのように思えた。
『レイ……』
打ち込んで、止まる。
訊ねたい本質の問いは、そこにある。明確な解答を、本物の確証を求めて、扉を 抉開けたかった。
なのに、言葉が形を成さない。
なぜなら、俺の内の脳細胞が、致命的な予感に気づいてしまったからだ。
㠪し、これ以上の問いを重ね、その向こう側にある真実の解答を受け取ってしまった時――俺の貧弱な精神は、それを許容するだけの覚悟を、何ひとつとして持ち合わせてはいないのだということに。
俺たちはもう、会話を重ねることをしなかった。
ダンジョンへ行くことも、他愛のない雑談に戻ることもない。ただ中央広場の片隅で、二つのキャラクターを並べたまま、静止していた。
同じ座標に佇み、同じ風景を見つめていながら――その実、もう決して同じ世界には存在していない、二人の人間。
数分の後。
『怖がらないで』
呼吸が、完全に停止した。
『なんで、そんなこと言うんだ』
即座に返信を叩きつけた。だが、そこからの秒針はひどく遅かった。
数秒。あるいは、永遠のような静寂。
新しいパルスは届かない。
彼女の名前がリストからふっと掻き消え、世界は再び灰色の沈黙へと反転する。
――Offline
俺は微動だにせず、ただ消灯した液晶の残像を見つめ続けていた。
思考は停止し、感情は凪いでいた。ただ、しん、とした深夜の寒気が、皮膚の表面を 抉開けるように伝わってくる。
生まれて初めて、俺の胸のなかに、明瞭な形を持った情念が立ち上がろうとしていた。
単なる違和感ではない。居心地の悪い焦燥感でもない。もっと深く、もっと冷たい、人間の根幹を揺るがすような根源的な恐怖。
俺はスマートフォンを掴み直し、再びブラウザの画面を開いた。
白一色のポートフォリオサイト。あの特定の四文字。タイムスタンプの数字。スレッドの最下部に転がっていた噂のゴミ。
――そのすべてが、今、修復不可能な一本の線となって、俺の胸の真ん中で繋がっていた。
俺は発光する硝子板を睨みつけながら、己の内の最も暗い仮説を、もはや拒絶することができなくなっていた。
『もし、それが本当なら……』
筐体を握る指先が、目に見えて細かく震えている。
生まれて初めて、俺は画面の向こう側の存在に対して、純粋な好奇心を失っていた。
残されていたのは、ただ、底冷えするような本物の「恐怖」だけだった。




