「第13章 確かめるために」
単なる「知りたい」という好奇心と、どうしても「知らなければならない」という強迫の間には、深遠な溝が横たわっている。
前者は、いくらでも後回しにできる。日々の雑音のなかに埋没させ、時間の経過と共に忘却の彼方へと追いやることも可能だ。
だが、後者は――決して、それを許してはくれない。
それは消えない棘となって思考の裏側に居座り続け、最悪のタイミングで、最悪の形状を伴って脳髄を 抉開ける。そうしてゆっくりと、しかし確実に、世界を受け止める己の内の数式を書き換えていくのだ。
その日の朝、俺はスマートフォンの画面を前にしながら、どうしてもゲームの起動アイコンに指を触れることができなかった。
この一連ের出来事が始まって以来、生まれて初めて、俺は電子の箱庭から意図的に距離を置いていた。
接続を拒絶しているわけではない。だが、今の俺がアプリを起動したところで、昨日までと同じルーティンをなぞるだけだ。色の変わらないリストを睨みつけ、空白の沈黙を待ち、答えの返らない問いを投げかけては自滅する。その退屈な自傷行為の繰り返しに、俺の精神はとうに限界を迎えていた。
代わりに、俺は再び現実のブラウザを開いた。
白一色のポートフォリオサイトは、昨夜から何ひとつ変わらない姿でそこに凍りついていた。
俺は画面をスクロールさせることもせず、ただ、ページの最下部に刻まれた特定の四文字を、網膜が 擦り切れるほどに見つめ続けた。
――橘レイ
深く、冷たい息を吸い込み、俺は新しいタブを開いた。
今度は、単なる名前だけの検索ではない。もっと具体的な、現実の「座標」を検索窓に流し込んでいく。
――震災 漫画家 倒壊 同姓同名
出力された結果は、すぐには明瞭な形を成さなかった。
ネットの海に不法投棄された膨大なニュースの残骸、ありふれた事故の記録。俺はそれらの一行ずつを、指先を震わせながら慎重に 漁っていった。無関係なノイズを排除し、己の内の暗い仮説と合致する「パズルのピース」を捜し求める。
どれほどの時間が経っただろうか。数分、あるいはもっと長い、引き延ばされた静寂。
やがて、画面の片隅に、ひとつの小さな地方紙のデジタルアーカイブが引っかかった。
大々的なヘッドラインではない。世間の関心を集めることもなかった、ひどく小規模な地方の震災速報。
俺はそのリンクをタップし、記事のテキストに視線を落とした。
被災した地域。倒壊した建造物の詳細。そして、その日付。
ドクン、と心臓が不快な重低音を立てて跳ねた。
タイムスタンプは――あのポートフォリオサイトの更新が唐突に「途絶えた」時期と、寸分の狂いもなく一致していた。
俺の目は、さらにその下に並んだ、極めて短い「被害者リスト」へと吸い寄せられていく。
視線の移動が、不自然なほどに緩慢になっていく。一行ずつ、一文字ずつ、ドットの形状を脳細胞に刻み込むようにして読み進めていく。
そして。
俺の指先が、完全に凍りついた。
――橘レイ
バックライトの白々しい光が、いつもより過剰に明るく、俺の網膜を焼きにくる。
叫び声を上げることも、激しい拒絶の情念が湧き起こることもなかった。ただ、目の前にある文字列を、何度も、何度も、壊れた機械のように読み返すことしかできない。
文字の形状は変わらない。他人の空似。同姓同名の別人。頭のなかで、理性の数式が必死に現実を擁護しようと警報を鳴らす。これは確証ではない。インターネットのゴミ溜めに転がっていた、断片的な記号の重なりに過ぎないのだと。
再び、目をあけて再び液晶を睨みつけた時、俺はもう、自分自身を欺くための言語を完全に失っていた。
パズルはあまりにも精密に噛み合いすぎている。
更新の途絶えたサイト。フォーラムの最下部に残されていた噂のゴミ。 insect。そして、この確実な死亡の記録。
俺はスマートフォンを机の上に置き、深く椅子の背もたれに身体を預けた。
自室はしんと静まり返っていた。思考は形を成さず、ただ一つの絶対的な矛盾の前に凍りついていた。
けれど、その静寂のなかで、バラバラだった世界の数式が、じわじわと修復不可能な一本の線へと収束していく。
そして、その線が明瞭な輪郭を持てば持つほど、俺の内の現実が、音を立てて崩壊していくのが分かった。
俺は再びスマートフォンを掴み、ゲームのアプリを起動した。
[LOGIN]
瞬時に再構築される電子の箱庭。
開帳されたプレイヤーリスト。数秒の遅延。
やがて、その四文字が出力される。
――Tachibana Rei - Offline
消灯したランプ。灰色の空欄。
俺はその沈黙を、必要以上に長く見つめ続けた。
生まれて初めて、俺は自分が「何を期待すべきなのか」その判別すら失っていた。
もし、彼女のランプが今ここで緑色に反転したなら、それは現実の記録がすべて間違いだったという救いになるのだろうか。
あるいは――それよりも遥かにおぞましい、本物の「怪異」との同期を意味する、最悪の絶望を意味するのだろうか。
俺はチャットボックスを開くことはしなかった。文字列を打ち込む気力すら湧かなかった。ただアバターを街の境界線に立たせたまま、その色の変わらないリストを凝視し続ける。何かのバグで、もう一度ランプが灯るのではないかという、無駄な未練だけを引き延ばして。
数分の後、俺は接続を切った。
視界が現実の自室へと戻る。しん、とした静寂。
けれど、その暗闇の手触りは、これまでの退屈な虚無とは決定的に異なっていた。
言葉にされない、けれどあまりにも明瞭に確定してしまった、ひとつの「答え」の重量。
俺は椅子の背もたれに深く沈み込み、静かに目をつむった。
確信があった。これから先、世界にどんなタイムラインが用意されようとも、俺たちの日常は二度と元の形には戻らないのだという、底冷えするような諦解。
なぜなら、俺はもう、見つけてはならない領域を踏み抜いてしまったからだ。
液晶の向こう側の、決して触れてはならない真実の質量。
そしてこの電子の海の底には、もう二度と、引き返すためのプロトコルなど存在しないのだということに――。




