「第14章 約束の前に」
こちらの都合などお構いなしに、ただ淡々と、冷酷に進み続ける物事がある。
時間――それこそが、この世界で最も容赦のない絶対律だった。
決して立ち止まらず、速度を落とすこともない。こちらに受け入れるだけの覚悟が整っているか否かなど、秒針にとっては取るに足らない瑣末な事象に過ぎないのだ。感情の失せた無表情な顔で、時間はただ、一刻一刻と俺の皮膚に冷たい傷を刻み込んでいく。
あの日付が、タイムラインの底に不発弾のように居座り続けている。
消えてはくれない。
かつては羽毛のように軽薄に思えたあの約束が、今は、意識の真ん中に底知れない重量を伴って居座っている。肺の奥へ、ゆっくりと、しかし確実に沈み込んでいく鉛の塊。
日々はただ、消費されていった。
噛み合わせの壊れた歯車のような、歪で、退屈な日常の反復。
目を覚まし、キャンパスへ足を運び、座席に身体を預け、そして自室の闇へと帰還する。
表面上は、何ひとつとして変わったところなどない。世界の数式は正常に機能している。だが、その平坦な時間の隙間に落ち込むたび、俺の思考は磁石に引き寄せられるようにして、ひとつの座標へと強制的に回帰させられていた。
――橘レイ。
その文字列。そして、そこに生々しくへばりついた、残酷な現実の質量。
俺はもう、現実のブラウザを開くことをしなくなっていた。
目を背けたいわけではない。ただ、あの白一色のページの底に何が刻まれているのか、すでに脳細胞のすべてが記憶してしまっているからだ。液晶に視線を落とすたび、胸の真ん中を 抉開けられるような息苦しさが、より明確な輪郭を持って俺の肉体を支配していく。
その夜、俺は逃れるようにして再び電子の箱庭へと繋いだ。
[LOGIN]
再構築される世界。
昨日と寸分違わないドットの景色が、液晶の向こう側に開帳される。
俺は思考を介さず、ただ手癖のようにプレイヤーリストを叩いた。数秒の遅延。
――Tachibana Rei - Online
……しん、とした静寂。
その緑色の光を目に収めるたび、胸の奥で、いつもの歪な情念が鎌首をもたげる。
㠪の平坦な安堵と、言葉にすることの叶わない、脆く、形を持たない不快な焦燥感の混濁。
開かれたチャットウィンドウの底で、一本のカーソルが無機質な明滅を繰り返している。
訊ねたい本質の問いは、そこにある。明確な解答を、本物の確証を求めて、扉を 抉開けたかった。なのに、指先が石のように重くて動かない。
『レイ』
空白。
『うん』
落ちてきた二文字は、いつもと同じ形状をしていた。
けれど、今の俺には、そのドットの並びをこれまでと同じ意味として読み取ることが、どうしても不可能なものに思えた。
『……覚えてるか?』
空白。
『何を?』
『今週だ』
付け足された言い訳も、飾り気もない文字列。
光回線を伝ってくる沈黙は、いつもより遥かに長く、過酷に引き延ばされていく。
俺は待った。世界の秒針が、耳の奥で嫌な金属音を立てて速度を上げる。
『覚えてるよ』
簡潔な、それだけの一言。
㠪の素っ気なさが、今はかえって、俺の胃の奥をじりじりと焼くような重圧となってのしかかってくる。
『……本気か?』
もはや単なる確認の台詞ではなかった。己の内の最も暗い仮説を、必死に否定するための縋りつき。
空白。
『本気』
言い訳も、反論もない。ただの肯定。
㠪し、その言葉が真実を射抜いているのだとしたら、俺が現実の網の底で見つけてしまったあの死亡の記録は、何かの間違いだったということになる。
だが――もし、あの冷たい文字列の側こそが本物の現実なのだとしたら、今、目の前の硝子板の向こう側で同期を繰り返しているこのデータは、一体何だというのだ。
『レイ』
『うん』
俺は息を深く吸い込み、喉の奥で冷え固まりかけていた言語を、無理やり押し出した。
『俺たち、本当に……会えるんだよな?』
これまで投げかけてきたどんな言葉よりも、過酷な質量を孕んだ文字列。
空白。
秒刻みの数字が、歪に引き延ばされていく。こちらの覚悟を値踏みするかのような、底冷えする静寂。
『言ったはずだよ』
何ひとつとして答えていない、ただの拒絶。
けれど、彼女のアカウントはそこから逃げ出そうとはしなかった。まるで、この歪なプロトコルのすべてが、最初から決定事項としてプログラムされていたかのように。
『……どこでだ?』
空白。
『いつもの場所でいいよ』
俺は画面のこちら側で、不自然に眉をひそめた。
『どういう意味だ?』
空白。
『あとで教える』
完結することのない文字列。
お互いに、これ以上「踏み込んではならない領域」の存在を察知し、タイムラインは再び沈黙に沈んだ。約束の日付だけが一方的に肉薄してくるというのに、二人の間の境界線は、どこまでも曖昧で、不透明なままだった。
それ以上、他愛のない雑談に戻ることはなかった。
ダンジョンへ行くことも、無駄な言葉を重ねることもない。
タイムラインを流れていくのは、ちぎれた断片のような短いパルスと、重苦しい余白ばかり。
残されていたのは、ただ、名前を与えることの叶わない微小な違和感の棘。
『あなた、来るの?』
唐突に弾けたその問いに、俺の筐体を握る指先が、目に見えて細かく震えた。
『行くよ』
理性のフィルターをすり抜けて、告白の文字列が滑り出していた。思考など介していない。ただ、そうしなければ世界のすべてが崩壊してしまうかのような、切迫した本能。
『……遅れないでね』
発光する硝子板を見つめる。
㠪りふれた、単純な一言。
なのに、どうしてだろう。その5文字は、これまで彼女が出力してきたどんなデータよりも、決定的な「本気」を含んでいるように聴こえた。
『ああ』
数秒のラグ。
『待ってるから』
俺は、次の言葉を完全に失っていた。
その文字列が持つ剥き出しの質量は、あまりにも重く、あまりにも生々しい実体を持って俺の胸に突き刺さったからだ。
信じてしまいたいという情念と、信じることが恐ろしいという絶望。
プレイヤーリストから、彼女の名前がふっと掻き消え、世界は再び灰色の沈黙へと反転する。
――Offline
俺は微動だにせず、ただ消灯した液晶の残像を見つめ続けていた。
脳細胞は硬直を続け、思考はその座標を見失っていた。ただ、目の前にある無機質な硝子板の意味を、必死に腑に落とそうとするだけ。
あの具体的な日付は、厳然としてそこに残されている。
交わした約束の事実も、確かに存在している。
けれど、あの約束の日――その指定された座標で、一体「誰」が、あるいは「何」が、俺の訪れを待っているというのだろうか。
生まれて初めて、俺は明慮な形を持った情念に支配されていた。
これから先、世界にどんなタイムラインが用意されようとも、二度と引き返すことはできない。一度でも歯車が噛み合ってしまえば、もう二度と元の形には戻らないのだという、底冷えするような本物の「恐怖」だけが、深夜の自室にいつまでも重く漂い続けていた。




