「第15章 間に合わなかった時間」
この世界には、どれほど全力を尽くして疾走したところで、絶対に追いすがる常軌の存在しない物事が存在する。
こちらにその意志が欠落していたからではない。努力を怠ったからでもない。ただ、始まりの時点において――二人の人間は、すでに決定的に噛み合わない異なるタイムラインに放り込まれていた。ただ、それだけのことだ。
その日は、何の前触れもなく、不敵なほどに淡々と訪れた。
かつては果てしなく遠い絵空事のように思えたあの数字が、仕様通りの秒針に押し流されて、ついに俺の現実に肉薄する。
俺はいつもより遥かに早い時間に目を覚ました。
明確な義務があったわけではない。ただ、重苦しい焦燥感が内臓を 抉開け、浅い眠りの底から無理やり引きずり出されたのだ。脳細胞は昨日までの出来事を反芻し、今日という日付がもたらすであろう顛末を値踏みして、狂ったように回転を続けている。
俺はスマートフォンの画面を立ち上げることをしなかった。ゲームも、チャットウィンドウも開かない。
その指定された座標へ、己の足で辿り着くその瞬間までは、冷たい硝子板の向こう側の記号に一切の主導権を渡したくなかったのだ。
約束のアドレスが送られてきたのは、昨夜の遅い時間だった。
短く、端的に、飾り気のない記号の羅列。
『ここ』
ただ一カ所の緯度と経度。他には何の説明もない。
俺は液晶の放つ淡い青光のなかで、その四文字を必要以上に長く見つめ、そして静かに覚悟を決めた。行くしか、ないのだ。
電車の窓外を流れていく灰色の景色は、いつもより奇妙に引き延ばされているように感じられた。物理的な距離は何ひとつ変わっていないというのに。
ガタゴトと規則的な音を立てて進む車両。周囲に座る見知らぬ乗客たちの、退屈そうな無表情。すべては正常であり、世界は完璧な調和を保って回っている。
――そして、その圧倒的な「普通」こそが、俺の内の現実感をどこまでも希薄に、絵空事のように塗り潰していった。
㠪、ポケットのスマートフォンは沈黙を維持している。新しいパルスは届かない。
タイムラインの最下部に残された、最後のログ。
『待ってるから』
その5文字が、消えない澱となって脳髄の裏で何度も明滅していた。俺は液晶を暗転させ、深く、冷たい息を吸い込んだ。
どれほどの時間を消費しただろうか。
俺は、その指定された座標へと辿り着いた。
そこは――俺が脳内で勝手にスケッチしていたような、ドラマチックな場所ではなかった。
人混みに塗れた駅前でもなければ、完全に文明から隔離された廃墟でもない。ただの、ありふれた地方の住宅街。しん、と静まり返り、どこか排他的なほどに凪いだ空気。
俺は周囲を見渡し、スマートフォンの画面に表示されたアドレスと目の前の光景を照合していく。
座標は、ここで間違いない。
一歩ずつの歩幅が、まるで泥のなかを 穿つように重かった。足元をすくい取ろうとする目に見えない粘質。
そうしてある地点で、俺の肉体は完全に凍りついた。
ひとつの建造物の、前。
いや――かつて「建造物であったはずのナニカ」の、残骸の前で。
声は出なかった。指先ひとつ動かすこともできない。
目の前に立ち塞がっていたのは、ただの剥き出しの「虚無」だった。
敷地を囲む、立ち入り禁止の仮設フェンス。風に 煽られて乾いた音を立てる警告の看板。そしてその向こう側には、震災の爪痕を色濃く残したまま、完全には撤去されずに放置されたコンクリートと鉄骨の 礫が、ただ静かに転がっていた。
俺は網膜が 擦り切れるほどに、その泥塗れの瓦礫の山を見つめ続けた。
脳細胞が、致命的な処理エラーを起こしてフリーズしている。風が細い呼気となって、錆びた鉄骨の隙間を通り抜けていく。周囲に他人の気配はない。生きている人間の生活音すら、そこからは完全に 隠蔽されていた。あるのはただ、かつてそこに「存在していた」という事実の死体だけ。
俺は機械的な動作でポケットからスマートフォンを 漁り出し、アプリを起動した。
開帳されたプレイヤーリスト。
――Tachibana Rei - Online
灯る、いつもの緑色の光。
俺は発光する硝子板を睨みつけ、凍りつく指先でチャットボックスを叩いた。
『いま着いた』
パルスが送信される。俺は息を止めて待った。数秒。ラグ。応答はない。
もう一度、周囲の空欄を見渡す。生きている肉体を持った人間など、何処にもいやしない。
俺は喉の渇きを覚えながら、次の文字列を流し込んだ。
『レイ?』
空白。引き延ばされる秒針。心臓の鼓動が、不快な重低音を立てて速度を上げる。
風がまた、瓦礫の隙間を 掠めていった。
その過酷な静寂の真ん中で、スマートフォンの筐体が、不意に短く震えた。
呼吸が、完全に停止する。
俺は弾かれたように視線を落とした。
『遅い』
指先が凍りついた。網膜が、液晶の二文字に釘付けにされる。
『俺はここにいる』
筐体を握る手が、目に見えて細かく震え始めていた。
『お前はどこにいるんだ?』
長い、重苦しい沈黙。光回線が、いつもより深い躊躇を孕んで引き延ばされる。
やがて。
『私もここにいるよ』
俺はゆっくりと上体を起こし、再び視線を現実の世界へと戻した。
空欄。虚無。
そこには、錆びた鉄骨と泥に塗れたコンクリートの残骸が転がっているだけだ。
『お前の姿が見えない』
短いラグの後、液晶が更新される。
『うん』
冷徹な肯定の二文字。
そしてその瞬間、俺の脳細胞のなかで、バラバラだった世界の数式が、修復不可能な一本の線となって完全に噛み合った。生まれて初めて、俺は画面の向こう側の真実を、その剥き出しの質量として腑に落としていた。
『レイ……』
打ち込んで、止まる。
伝えたい言語はそこにあるのに、どのボキャブラリーを尽くしたところで、この絶対的な矛盾を肯定するための正しい関数にはなり得ない。
空白。
『私、待ってたんだよ。あの時』
ドクン、と心臓が位置をずらした。
『あの時?』
空白。
『あの日』
指先の震えが、もう俺の貧弱な意志では制御できない領域に達していた。
『レイ……それって、いつのことだよ』
空白。これまでのどんな遅延よりも、果てしなく深い、息苦しい沈黙。
やがて、液晶の底から最悪の波形が出力された。
『すべてが止まっちゃう、前』
俺は、微動だにできなくなった。
思考を組み立てることも、理性の数式で現実を擁護することも、もう何もできない。ただ瓦礫の山を前にして、スマートフォンの発光する画面に縛り付けられているだけ。
タイムスタンプ。過去の残滓。フォーラムの最下部に転がっていた噂のゴミ。あの震災の記録。
――そして今、目の前で静かに冷気となって溢れ出している、この絶対的な断絶。
『お前……』
文字列は完結しなかった。そんな必要は、もうどこにもなかったからだ。
空白。風が、警告の看板を小さく揺らす。
『会いに来てくれて、嬉しい』
目頭の奥が、熱い質量を伴って 抉開けられる。
『俺は……』
キーを叩く指が止まる。言葉の続きを見失ってしまった。
なぜなら、俺はもう、完全に理解してしまったからだ。
今日、この場所に辿り着くのが遅かったのではない。
俺は――最初から、すべてにおいて遅すぎたのだ。
これまで交わしてきたすべての他愛のない雑談も、ダンジョンを攻略したあの歪なルーティンも、共有してきたはずの時間のすべてが。
すでに世界の数式から切り離された、二度と重なり合うことのない「異なる時間」の底で、ただ一方的に消費されていた残像に過ぎなかったのだと。
『ありがとうね』
液晶の文字が歪んだ。自分の目から零れ落ちた熱い液体が、硝子板の表面を濡らしていく。
『レイ、待て、まだ――』
パルスは送信された。
けれど、それに対する新しい応答が出力されることはなかった。
数秒の猶予。
バックライトの光のなかで、プレイヤーリストの特定の4文字が、ふっと掻き消え、世界は再び灰色の沈黙へと反転する。
――Offline
俺は画面を閉じることをしなかった。
言葉を失い、思考を奪われ、ただ石のように硬直したまま、その消灯したアカウントの残像を凝視し続けていた。
かつて、一人の少女が確かに誰かの訪れを待ち続け、そして、二度と取り戻せない時間の彼方へと消え去っていった、その境界線の真ん中で。
俺はただ、液晶の放つ白々しい光のなかに、永久に立ち尽くすことしかできなかった。




