「第16章 残された静けさ」
すべてが終焉を迎えた後、そこに残されたのは明確な解答ではなかった。
凍りついた胸を溶かすような安堵の情念でもない。ただ、圧倒的な、剥き出しの「静寂」だけが、津波のあとのようにすべてを呑み込んでそこに横たわっていた。
俺はすぐに帰路につく気にはなれなかった。
ただ立ち尽くしていた。錆びた鉄骨と泥塗れのコンクリート。夕闇のなかで急速にその輪郭を喪失していく瓦礫の山を、俺は硬直したまま見つめ続けた。
音は途絶えていた。スマートフォンの筐体が再び震える気配もない。
チャットログは、完全に停止していた。あの致命的な境界線で、時を止めて。
『ありがとうね』
その五文字の残滓の前に、俺の脳細胞はフリーズしたままだった。
どれほどの時間をそこに不法投棄しただろうか。時間の数式が狂ってしまったかのように、秒針は進んでいるようでいて、その実、世界の座標を何ひとつとして進めてはくれなかった。
㠪やがて、俺は一歩だけ、後ろへと足を引いた。
ゆっくりと、泥のなかから身を引き剥がすように。
それはまるで、現実に生きる俺の肉体には、二度と持ち帰ることのかなわない何事かを――あの電子の奈落の底へ、置き去りにしていくための儀式のようでもあった。
帰りの電車のなかは、往路よりも遥かに寒々しく静まり返っていた。
ガタゴトと規則的な音を立てて進む車両。周囲の乗客たちは相変わらず他愛のない雑談を交わし合っている。けれど、それらの音波はすべて酷く遠い場所から響いているように感じられ、脳に届く前に霧散した。俺だけが世界のタイムラインから切り離され、一人で別の位相を彷徨っているかのような眩暈。
ポケットのスマートフォンを取り出す。
液晶は暗転したままだ。俺はそれを起動しようとはしなかった。指先が画面に触れるのを、本能が拒絶していた。
なぜなら、分かっていたからだ。その硝子板を開いたとき、目の前にどんな現実の死体が横たわっているのかを。今の俺には、それを受け止めるだけの覚悟のインクなど、一滴も残されてはいなかった。
その夜、俺は呪われたように再びアプリを起動した。
[LOGIN]
開帳される電子の箱庭。
何も変わらないドットの景色。いつもと同じ色をした空。
俺は思考を介さず、プレイヤーリストを開いた。数秒の遅延。
――ない。
そこに、あの特定の四文字は出力されなかった。ただの空欄。灰色の沈黙。
俺はその空白を、これまでになく長い時間、じっと凝視し続けた。
けれど生まれて初めて、俺の胸のなかに「彼女のランプが緑色に反転してほしい」という無駄な未練は湧いてこなかった。
俺はただ、世界の数式を、そのまま受け入れていた。
チャットウィンドウを開く。
過去の歴史が、タイムラインの底に不発弾のように並んでいる。短く、端的に、無駄な装飾をすべて削ぎ落とした記号たち。以前なら退屈な暇潰しとして読み飛ばしていたはずのドットの羅列。
㠪、今の俺には、そのすべてがまったく別の意味を持って網膜を叩く。
俺はログを上へとスクロールさせていった。さらに深く、引き延ばされた時間の彼方へ。
最初の、出会いの夜まで。
『うん』
俺の唇が、自嘲気味に、ほんの少しだけ綻んだ。
あの頃は、そのたった二文字だけで、世界が十分に同期できているのだと信じ込んでいた。
今の俺から見れば、それはあまりにも遠い、非現実的な絵空事のようだった。
すべての文字を、最初から読み返していく。ゆっくりと、細かな呼吸のラグ、タイピングの些細なエラー、完結することのなかった文章の隙間をなぞるように。
今なら、その歪なプロトコルのすべてが、明瞭な因果関係を持って俺の胸に突き刺さる。
『もう待たなくていいよ』
『私、まだここにいるよ』
『怖がらないで』
どれひとつとして、偶然のバグなどではなかった。俺のような画面の向こう側の人間には決して修復することのできない、すでに確定してしまった世界の破綻。
俺はログの最下部、最後のパルスで指先を止めた。
『ありがとうね』
俺は液晶を見つめ続け、それから、震える指先でキーボードを叩いた。
『俺も』
送信ボタンを叩く。
新しいパルスは届かない。俺もまた、待つことをしなかった。ただ発光する硝子板の輝きを数秒間だけ見つめ、それから静かにウィンドウを閉じた。
それからの日々は、ひどく穏やかに、そして淡々と消化されていった。
俺は元のレールへと帰還した。
退屈な講義を聴き、自室へ帰り、そして沈黙する。
時折、思い出したようにゲームを起動することはあった。ログインし、広場を眺め、そしてすぐに接続を切る。以前のような執着も、時間の浪費もない。
ある深夜、俺はいつもより長く、アバターを世界に滞留させていた。
プレイするためではない。ただ、かつてすべてが瑞々(みずみず)しく軽やかだったあの広場の片隅で、静止していた。
フレンドリストを開く。
四文字の表記は、まだそこに残されていた。
――Tachibana Rei
オンラインでもなければ、オフラインでもない。ただ、一つの消えないデータとして、そこに佇んでいる。
俺はその文字列を見つめ続けた。
㠪、今の俺は、そこから何のメッセージも、何の確証も引き出そうとはしなかった。声をかけるためのキーを叩くことも、無駄な猶予を待つこともしない。
俺はただ、その四文字を、あるべき場所にそのまま置いておいた。
それは世界に刻まれた、消えない傷跡のようなものだ。
たとえタイムラインが次のページへと進み、二人の対話が幕を閉じたとしても、ここに彼女という足跡が存在した事実だけは、決して掻き消えはしない。
俺はゆっくりと接続を切った。
視界が現実の自室へと戻る。バックライトの光が失われ、暗闇が戻ってくる。しん、とした静寂。
けれど、その夜の暗闇は、もう以前のように完全に空虚ではなかった。
閉ざされた世界の底に、確かに一つの「記憶」が沈殿していた。
二度と繰り返すことはできず、二度と同期することも叶わない、未完の独白。
けれど俺はもう、それを忘却の彼方へ捨てるつもりはなかった。
そして、今の俺にとっては。
その消えない澱を胸の真ん中に抱えたまま、この平坦な日常を歩き続けることだけが、唯一許されたプロトコルであるかのように、十分すぎるほどだった。




