「第17章 届かなかった言葉」
この世界には、永久に宛先を失ったまま彷徨い続ける言葉が存在する。
送信のプロトコルが不備を起こしたからではない。回線のノイズに掻き消されたわけでもない。ただ、時間という残酷な絶対律が――その言葉に、届くための猶予を二度と与えなかった。ただ、それだけのことだ。
日々は、淡々と消化されていった。
少なくとも、外の世界の数式にとっては、俺の内の破綻など何の関係もないことだった。
俺は元のレールへと帰還していた。
目を覚まし、キャンパスへ足を運び、そして自室の闇へと戻る。
すべては昨日と同じ色をしていた。だが、それを受け止める俺の内の輪郭だけが、決定的に変質していた。
時間を、意識するようになった。あるいは――「待つ」という行為のなかに含まれる、剥き出しの空虚さを。
㠪俺はもう、毎晩のように電子の箱庭へ繋ぐのをやめていた。
かつてのような執着はもうない。気まぐれにログインする日もあれば、灰色の画面を睨みつけたまま一日を終える日もあった。液晶の向こう側に、俺の針を合わせるべき特定の四文字は、もう出力されないのだと知っているからだ。
なのに、どうしてだろう。アプリを終了することだけは、どうしてもできなかった。
その夜、窓外では夏の終わりの重い雨が、アスファルトを叩きつけていた。
激しい豪雨ではない。ただ、しん、とした深夜の静寂のなかに、かすかな輪郭を与える程度の単調な響き。
俺はベッドの端に腰掛けたまま、動きを止めていた。
ただ、手癖のように、スマートフォンの発光する硝子板に指を滑らせる。
[LOGIN]
再構築される世界。いつもと同じ、鮮やかで清潔な青空。
俺はアバターを前進させることをしなかった。プレイヤーリストを開く気にもならなかった。
代わりに、俺はこれまで一度として触れることのなかった、別の領域へと指先を這わせた。
――受信ボックス。
運営からの通知や、システムログが不法投棄されるだけの、退屈な空欄。
タイムラインがせり上がってくる。並んでいるのは、決まりきった記号の死体ばかり。
だが、その澱のなかにぽつりと、ひとつの小さな、未読のアイコンが弾けていた。
俺の指先が、キーボードの上で凍りついた。
発信元の名前に、網膜が釘付けにされる。
――Tachibana Rei
ドクン、と心臓が不快な重低音を立てて位置をずらした。
俺はすぐにそれを開くことができなかった。それはまるで、触れてはならない境界線の向こう側に眠る、古い棺の蓋を 抉開けるかのような、薄気味悪い戦慄。
けれど、俺の肉体は拒絶を許さなかった。吸い寄せられるように、承認ボタンをタップする。
ウィンドウが展開され、数行の文字列が液晶の底から浮かび上がってきた。
『もし、あなたがこれを読んでいるなら……』
『私はもう、直接伝えることができなかったってことだね』
『ごめんね』
㠪の呼吸が、完全に停止した。
画面を見つめたまま、俺の筐体を握る指先が、目に見えて細かく震え始めていた。
インクを網膜の裏になぞり直す。ゆっくりと、一文字ずつ。
『変なことを書いているのは、自分でも分かってる』
『でも、どうしても残しておきたかったから』
『約束の時間までに、これが完成するかどうか、分からないから』
肺の奥が、冷たい質量を伴って 抉開けられる。
書かれていたのは、これまで液晶の底で幾度となく共有してきた、あの素っ気ない符牒のトーンではなかった。
そこにあるのは、もっと明瞭な「意識」の残痕。
もっと生々しい実体を持った、本物の人間の呼吸だった。
『私ね、よく考えるんだよ』
『もしある日突然、私がログインできなくなっちゃったら』
『あなたは、待っててくれるのかなって』
目頭の奥が、熱い液体に浸されていく。
視界が僅かに白濁し、ドットの形状がボヤけていくのを、俺は乱暴に手の甲で 拭い去った。
先を、読まなければならない。
『本当はね、会ってみたかったんだ』
『本気だよ』
『でも、もし間に合わなかったら……』
文字列が、そこで僅かに空白の余白を作っていた。まるで、言葉にならない躊躇の質量を、そこに沈めるかのように。
『あなたには、そのままゲームを続けてほしいな』
『私がいなくなっても、一人になっても』
『だって私、あなたと一緒にいる時間、すごく楽しかったから』
俺は一度、強く目をつむった。
脳細胞のなかで、ちぎれた記憶の断片が、狂ったように回転を始める。
いつものダンジョン。ミリ秒刻みの遅延。他愛のない短いチャット。
かつては退屈な暇潰しとして、無駄に浪費してきたはずのあの時間のすべてが、今はあまりにも遠い、二度と取り戻せない非現実的な絵空事のように思えてならなかった。
俺は目をあけ、最後の数行へと視線を落とした。
『それと……』
『ありがとうね』
最後のパルスと同じ、あの五文字。
俺は硬直したまま、ただ発光する硝子板を凝視し続けた。
思考を組み立てることも、感情を露わにすることもない。ただ、胸の真ん中に突き刺さったその言葉の重量を、肉体だけで受け止めていた。
そのメッセージは、新しいデータではなかった。
タイムスタンプの数字は――すべての崩壊が始まる、遥か過去の境界線を示していた。
あの震災よりも前。
世界のすべてが停止してしまう、前の、引き延ばされた時間。
俺は、その冷徹な数字を必要以上に長く見つめ、そして、世界の数式を完全に腑に落とした。
㠪は今、送信されたものではない。
ずっと昔に、何処かの誰かが、液晶の壁の向こう側に置き去りにしていった遺言。
まだ、お互いのことすら十分に知り合っていなかった、あの出会いの夜の彼方から届いた、未完の独白。
俺の指先が、ゆっくりと動いた。
受信ボックスのなかに、返信を打ち込むための正しい関数は用意されていなかった。答えるべき座標など、何処にもいやしないのだ。
代わりに、俺はいつものチャットウィンドウを開いた。
二人の歴史の最下部に残された、最後のログ。
『ありがとうね』
俺はキーボードを叩き、文字列を送信した。
『俺も』
指先を止めない。さらに、もう一行のパルスを流し込む。
『行くよ』
送信ボタンを叩く。思考など介していない。
新しい返事が来ないことくらい、最初から分かっていた。だから俺は、待つことをしなかった。ただ無機質な硝子板の輝きを消灯し、スマートフォンをごろりとベッドの上に放り出した。
窓の外では、まだ雨がアスファルトを叩きつけていた。
緩慢な、急ぐ理由を持たない自然の運行。
けれど生まれて初めて、俺の胸の奥にある澱は、静かに凪いでいた。
㠪の静寂は、もう空虚ではなかった。
予感があったのだ。
彼女が言いかけて、そのまま冷たい電子の底へ沈めてしまった、あの未完の文章。
これこそが、彼女が俺たちのタイムラインの底に用意していた、本物の「幕引き」だったのではないか、という底冷えするような諦解。
そして俺は、その消えない記憶を胸の真ん中に抱えたまま、再び歩き出す。
二度と同期することのかなわない、灰色の日常のなかへ――。




