「第18章 そのままでいい」
この世界にあるすべての物事が、数式のように綺麗に解決されなければならないわけではない。
凍りついた胸のなかの情念が、時間の経過と共に完全に掻き消えなければならないわけでもない。
時として――現実に生きる俺たちに必要なのは、明確な解答などではないのだ。
ただ、その割り切れない澱を、割り切れない形のままでそこに置いておくための、胸の奥のわずかな「余白」。
日々はただ、淡々と進み続けていた。
こちらの帰りを待つこともなく、速度を緩めることもない。
俺は完全に、元のレールへと帰還していた。
退屈な講義を消化し、自室へ帰り、そして腰を下ろす。
かつては完全な空虚に塗り潰されていたはずの、その取るに足らない微小な習慣が、少しずつ、穏やかな日常の輪郭を取り戻し始めている。
すべてが元通りになったわけではない。ただ、それらを無理やり元の形へと捩じ戻そうとする無駄な試みを、今の俺が手放したからだった。
俺はまだ、あの電子の箱庭を起動することがある。
ほんの時折だ。毎晩のように繋ぐわけではない。液晶の向こう側に、誰かの気配を捜し求めるような浅ましい 待ち焦がれの情念は、もうそこにはなかった。
ただ、肉体に深く染みついた、他愛のない習性の残痕として。
世界は何も変わっていなかった。
いつもと同じ色をした空。耳に馴染みすぎた合成音声の旋律。
俺のアバターは、かつて二人で幾度となく足を運んだ座標を、ゆっくりと彷徨っていた。
無機質なダンジョンの通路。中央広場の片隅。理由もなくキャラクターを並べて、ただ時間の消費を共有していた、あの馴染み深い街並み。
風景のすべてが、当時の仕様のままでそこに佇んでいる。
そして生まれて初めて、俺はそのドットの色彩を前にしながら、胸を 抉られるような喪失の重圧を感じてはいなかった。
ただ……静かに、記憶していた。
俺はフレンドリストのウィンドウを開いた。
特定の四文字は、変わらずそこに灯っていた。
――Tachibana Rei
文字の形状も、その色も、何ひとつとして変わらない。
俺は液晶の光を、数秒間だけ見つめ続けた。
以前の俺なら、奇跡のようにそのランプが緑色に反転する瞬間を、喉を 乾かせながら希求していただろう。
㠪、今の俺は、その四文字をただの「完結した過去の足跡」として受け止めていた。
掻き消えてしまったのではない。失われたのでもない。ただ、ひとつの物語として、美しく終了したのだ。
チャットウィンドウを展開する。
タイムラインの底には、過去の対話の歴史がそのまま不法投棄されていた。
俺はそれを、もう一度最初から読み返すようなことはしなかった。昨日までの俺のように、ドットの隙間に隠蔽された意味を 漁る必要は、もうどこにもなかったからだ。
そこに何が書かれているのか、俺の脳細胞はすべてを記憶している。わざわざ硝子板の上で確かめるまでもない。
俺はログの最下部、あの最後のパルスで指先を止めた。
『ありがとうね』
㠪の唇が、自嘲ではなく、ひどく静かな形を伴って、ほんの少しだけ綻んだ。
それがドラマチックな歓びを伴うものではなかったとしても、今の俺たちにとっては、それで十分に満ち足りているように思えた。
俺の手首が、ゆっくりと動いた。
『うん』
これ以上の言葉を付け足すことはしなかった。そんな無駄な装飾は必要ない。
パルスは送信された。
そして生まれて初めて、俺は送信ボタンを叩いたその直後、液晶の底からの新しい応答を待とうとはしなかった。
俺はチャットを閉じ、アプリを終了させた。
視界が現実の自室へと戻る。バックライトの光が失われ、暗闇が戻ってくる。しん、とした静寂。
けれど、その夜の静けさは、もう俺の肉体を圧迫してはこなかった。
空虚ではない。ただ、凪いでいる。
俺はベッドの上に身体を横たえ、染みのついた天井を見つめた。
脳細胞は硬直を解かれ、思考が狂ったように回転を始めることもない。解答のない問いも、未完の仮説も、すべてはどこかへ霧散していた。
㠪るべき場所に、あるべき記憶だけが沈殿している。
かつて、液晶の壁の向こう側に、確かに一人の少女が存在していたという事実。
二度と繰り返すことはできず、二度と同期することも叶わない、引き延ばされた時間の破片。
そして、その歪なプロトコルの真ん中に、確かに自分が立っていたのだという、確かな手応え。
窓の外では、夜の風がゆっくりと梢を揺らし、遠くの街の雑音を微かに運んできていた。
俺は静かに、目をつむった。
もう、その記憶を強引に引き留めようとはしなかった。時間を巻き戻そうとも、これ以上の真相を暴き出そうとも思わない。
俺はただ、世界の数式を、その割り切れない形状のままで、己の胸の真ん中に受け入れていた。
そして、今の俺にとっては。
その消えない澱を抱えたまま、再び静かに歩き出すことだけが、唯一の正しい世界の運行であるかのように、十分すぎるほどだった。




