「第19章 さよならのかたち」
別れの情念というものは、必ずしも劇的な言語を伴って訪れるわけではない。
分かりやすい境界線があるわけでも、誰かの肉体が目の前で掻き消えていくわけでもない。それはもっと密やかで、緩慢な、時間の運行。
ただ、胸の内の待ち焦がれの針が、静かにその回転を停止する瞬間。
その夜、俺は再び電子の箱庭へと繋いだ。
すでに肉体に染みついた惰性の習慣ではない。何かのバグを確かめるための浅ましい執着でもなかった。
ただ、もう一度だけ、その地平へ足を運んでおきたかった。ただ、それだけだ。
[LOGIN]
再構築される世界。何も変わらないドットの色彩。いつもと同じ色をした空。
俺は明確な目的意識を持たないまま、アバターを前進させた。
擦り切れるほど共有してきたはずの、いくつかの馴染み深い座標。無機質なダンジョンの通路、広場の手前の小さな空き地。理由もなくキャラクターを並べて、ただ時間の消費を共有していた、あの退屈な景色。
歩調は緩やかだった。世界から何かを奪い取ろうとする焦燥感は、もうそこにはなかった。
やがて、アバターの動きが静止する。
あの定位置。すべてがまだ瑞々(みずみず)しく軽やかだった頃の、街の片隅。
俺はフレンドリストを開いた。
特定の四文字は、変わらずそこに灯っていた。
――Tachibana Rei
消灯したランプ。灰色の空欄。
俺は液晶の光を、数秒間だけ見つめ続けた。
それから、チャットウィンドウを展開する。
タイムラインの底には、過去の対話の歴史がそのまま沈殿していた。
俺はログを上へとスクロールさせることもしなければ、文字の隙間に隠蔽された意味を読み返そうともしなかった。それらはもう、すべて俺の脳細胞のなかに記憶されている。
㠪の指先が、静かにキーボードを叩いた。
『レイ』
パルスが回線を流れた。新しい応答が来ないことくらい、最初から分かっていた。
俺は待つことをせず、ただ発光する硝子板を見つめ続けた。
数秒の空白。
『俺、もう行くよ』
簡潔な、それだけの一言。
ドラマチックな感嘆符も、過剰な装飾もない。けれど今の俺にとっては、その五文字だけで十分に満ち足りているように思えた。
㠪の唇が、ひどく静かな形を伴って、ほんの少しだけ綻んだ。
打ち込みかけたドットの三点リーダーを消去し、俺は送信ボタンから指を離した。
これ以上の言葉を重ねたところで、世界の数式が書き換わるわけではないし、そんな無駄な抵抗は必要ないのだと知っていたからだ。
メッセージは送信され、タイムラインは凪いだままだ。あるべき静寂。
俺はチャットボックスを閉じ、世界へと視線を戻した。
アバターはまだ、同じ場所に立ち尽くしている。俺は動かなかった。何のアクションを起こすでもなく、ただ液晶の底をじっと凝視するだけ。
数分の後、システムメニューを開いた。
視界の隅に浮かび上がる、一つの選択肢。
――Log Out
俺はその二文字を、必要以上に長く見つめ続けた。
以前の俺なら、引き返すためのプロトコルを前にして、何度も躊躇の質量を測りかねていただろう。
、今の俺の指先に、迷いの遅延はなかった。
思考を介さず、ただ静かにその座標を押す。
[LOGIN / ログアウト]
世界の色が致命的に反転し、電子の箱庭が掻き消える。
システム画面の暗転。自室に元の静寂が戻ってきた。
俺はスマートフォンをごろりとベッドの上に放り出し、そのまま動きを止めていた。すぐに立ち上がる気にはなれなかった。ただ腰掛けたまま、暗闇のなかで呼吸を繰り返す。
胸の奥にある澱は、もう俺の肉体を圧迫してはこなかった。
すべてが消え去ったわけではない。ただ、それらを無理やり胸のなかに繋ぎ止めようとする無駄な力を、今の俺が手放したからだった。
窓の外では、夜の風がゆっくりと梢を揺らし、いつも通りの単調な運行を続けていた。
街灯の白々しい光。遠くの道路を流れるかすかな雑音。何も変わらない灰色のリアル。
そして、その変わらなさこそが、今の俺にはひどく正当なものに思えた。
俺はゆっくりと立ち上がり、もう一度だけスマートフォンの硝子板に視線を落とした。
通知のランプは消灯したままだ。新しいパルスが画面を掠めた気配もない。
けれど生まれて初めて、俺はその空欄に対して、胸を抉られるような喪失の重圧を感じてはいなかった。
ただ……小さく、首を縦に振った。
世界の数式を、完全に腑に落とした人間の仕草。
この世界にあるいくつかの物事は、わざわざ次のタイムラインへ引き延ばさなくとも、その完結した形状のままで十分に意味を持ち続けるのだという、底冷えするような優しい諦解。
㠪して俺は、知らず知らずのうちに、一歩を踏み出していた。
㠪の電子の箱庭の境界線からだけではない。
これまであまりにも長い間、己の内の最も暗い死角に、頑なに抱え込み続けてきた「ナニカ」の呪縛から、俺の身体は静かに解き放たれつつあった。




