「最終章 そのあと」
どれほどの時間が消費されただろうか。
カレンダーの数字を正確に遡るための確証は、もう何処にも遺されてはいなかった。特別な記念碑が街に建ったわけでもない。ただ、胸の真ん中に沈殿していた澱の輪郭が、いつの間にか、それほど生々しい実体を伴わなくなっていることに気づく程度には――引き延ばされた、長い沈黙。
世界はとっくに元のレールへと帰還していた。
退屈な講義、夕闇に侵食されていく通学路、自室の使い古されたベッド。
一ノ瀬直哉の肉体は、外側の数式にとっては、何ひとつとして変わったところなどないように見えたはずだ。だが、その皮膚の裏側、意識の最も鋭利な死角において。
何かが決定的にズレて、別の位相へとスライドしてしまっている事実を、彼は静かに腑に落としていた。
部屋の配置は、あの頃と寸分違わなかった。
安物の作業机、ノートパソコン、背もたれの軋む椅子。
けれど、その閉ざされた空間を満たす空気が、以前のように彼の肺を圧迫してくることはない。重苦しい息苦しさは消え失せ、ただの平坦な凪ぎだけがそこに横たわっていた。
その夜、彼は再び液晶の前に腰を下ろした。
かつて擦り切れるほど繰り返してきた、惰性のルーティン。
起動の仕様に従って、電子の箱庭が目の前に開帳される。ロード画面の明滅、網膜を叩くドットの色彩。
アバターが世界の初期位置に実体化した直後、彼は数秒間だけ、指先を止めていた。
鼓膜の奥を震わせるのは、耳に馴染みすぎた合成音声の旋律だけ。
パーティへの招待コードが弾けることもなければ、ウィンドウの底に新しいチャットログが滑り込んでくる気配もない。
それなのに、不思議と空虚ではなかった。不快な虚無感に足元をすくい取られるような焦燥は、今の彼にはもう湧き起こらない。
直哉は緩慢な動作で、キーボードに指を滑らせた。
小規模なダンジョンの消化、他愛のないクエストの自動処理。アバターの軌道は以前よりも遥かに弛緩し、効率という名の数字に追われる気配は微塵もなかった。
時折、何の意味もない空間の真ん中で、キャラクターの動きが静止する。
切り取られた液晶の景色を、彼はただ、記憶の残痕をなぞるようにして眺めていた。
「……ここだったな」
短い呟きは、回る換気扇の雑音に吸い込まれて消えた。
理由などないまま、指先がフレンドリストのウィンドウを叩いていた。
特定の四文字は、変わらずそこに登録されたままだった。掻き消えることもなく、失われることもなく。
――Tachibana Rei
消灯したランプ。灰色の空欄。ステータスは――Offline。
直哉はそのドットの並びを数秒間だけ見つめ、それから、自嘲ではなく、ひどく静かな形を伴って唇を僅かに綻ばせた。
「……ああ」
ウィンドウを閉じ、彼は再び退屈な作業へと意識を埋没させた。
時間はただ、仕様通りの速度で消費されていく。
画面の隅のデジタル時計が、深夜の境界線へと近づいていくのを、彼はまともに意識することもなかった。
もうひとつのダンジョンをクリアした時、アバターの連携はかつてないほどに洗練されていた。誰の援護を得たわけでもないのに、パズルのピースがすとんとあるべき場所に収まったかのような、静かな達成感。
「……悪くない」
思考のフィルターを通さず、そんな言葉がこぼれ落ちていた。
今度の微笑には、確かな色彩が混じっていた。椅子の背もたれに深く身体を預け、冷たい胸の空気をゆっくりと吐き出す。
手癖のような、古い習性。
彼は再びチャットログの履歴を展開した。
二人の歴史の最下部には、あの最後のパルスがそのまま不法投棄されている。
『 よい旅を 』
文字の形状は変わらない。直哉はその文字列を、必要以上に長く見つめ続けた。
「……もう、いいな」
微かな呟きと共に、チャットを閉じようと指先を滑らせた、その刹那。
画面の最下部、無機質な境界線の隙間に、極小のドットが弾けた。
――タイピング中……
呼吸が、完全に停止した。
直哉の目は、液晶の硝子板に釘付けにされた。微動だにせず、瞬きをすることすら忘れて、その発光する三点リーダーを凝視し続ける。
数秒の、永遠のような遅延。
やがて、その記号はふっと掻き消えた。
新しい文字列が出力されることはなく、タイムラインは再び凪いだままだ。何事もなかったかのように、ただの沈黙へと収束していく世界。
直哉は見つめ続けた。さらに引き延ばされる秒針。
心臓の鼓動が、一瞬だけ不快な重低音を立てて速度を上げたが、それも、皮膚の表面を掠めていく冷気のように、ゆっくりと凪いでいった。
「……バグか」
囁き声は、暗闇のなかに融けて消えた。
けれど、その声のトーンには、己の理性を完全に説得しきるためのインクは含まれていなかった。
㠪はウィンドウを抉開け直すこともしなければ、猶予を求めて待つこともしなかった。ただ静かにチャットボックスを閉じる。
画面はメインメニューへと戻った。
静寂。何も起きない、退屈なシステム画面。
数秒の後、今度はフレンドリストのアイコンが、微かなノイズを奔らせて明滅した。
㠪が誘われるようにしてリストを展開する。
――Tachibana Rei
名前はその座標に佇んでいた。
けれど、ほんの、ミリ秒刻みの極小の隙間。
灰色の空欄だったはずのランプが、奇妙なノイズを伴いながら、一瞬だけ鮮やかな緑色へと反転した。
――Online
直哉の肉体は、完全に彫像のように硬直していた。
視線が、そのドットの光に縛り付けられる。だが、彼が何らかのアクションを起こすよりも早く、世界のプロトコルは瞬時に修正された。
反転する光。元通りの、灰色の沈黙。
――Offline
しん、とした静寂。
他には何も存在しなかった。新しいメッセージが届くこともなければ、世界の数式が目に見えて書き換わることもない。
まるで最初から、そんなバグなど発生していなかったかのように。
㠪の硝子板を数秒間だけ睨みつけ、それから、直哉は小さく、唇の端を吊り上げた。
薄く、けれど酷く穏やかな、世界のすべてを受け入れた人間の仕草。
「……ああ」
彼はゲームの接続を切った。ノートパソコンの電源を落とす。
バックライトの光が失われ、自室に元の暗闇がなだれ込んできた。しん、とした深夜の寒気。
直哉はベッドのなかに身体を沈め、静かに毛布を引き上げた。
ゆっくりと、まぶたが閉じられていく。
㠪の過酷な静寂の真ん中にあって、彼の胸の奥は、もう完全な「一人」の空虚に怯えてはいなかった。
液晶の向こう側に、誰か具体的な肉体が待ち構えているわけではない。
けれど、かつてこの世界の境界線に確かに存在していた「ナニカ」の足跡は、決して完全には掻き消えはしないのだという、底冷えするような優しい諦解。
データは消去されず、ただ、実世界の数式とは異なる別の座標へと、静かに着陸しただけなのだ。
そして、時折。
引き延ばされたタイムラインの隙間から、ほんのミリ秒の遅延を潜って、かつての符牒を投げかけてくる。
ほんの一瞬だけ、こちらの皮膚を撫でまわすようにして。
そうして再び、光回線の彼方へと、際限のない沈黙の底へと帰還していく。




