第21章 灯りの消えた部屋
室内の暗がりのなかで、ただ一カ所、発光するモニターの白々しい輝きだけが、この空間の秒針を辛うじて証明していた。
天井の主照明は、夕刻が訪れる前に消したままだ。灯体が寿命を迎えたわけでも、電気代を惜しんだわけでもない。過剰な光の暴力は、いつだって脳髄を抉るような頭痛へと変わる。まして、締め切りという名の冷たい刃に、思考の最後の一滴まで搾り取られかけている今の身にとっては。
この闇のなかに引きこもっている間だけが、唯一の安息だった。世界から切り離された作業机、そして目の前で一定の波形を放ち続ける電子の箱。
カタ、カタ、カタ。
プラスチックのペン先が、液晶タブレットの硝子面を叩く無機質な音。単調な反復。それは、いつの間にか浅く、重くなり始めていた己の呼吸のテンポと不自然に同期していく。
今日中に仕上げるはずだった、二十ページの第五コマ。引いたばかりの線画は、仕様を無視して数ミリだけ右へと流れていく。指先の筋肉はもう、脳細胞の命令を拒絶するように硬直していた。
コントロールキーとZを同時に叩く。
――Undo
歪んだ描線が、一瞬で掻き消える。
己の動きを殺し、深く、長い息を吐き出してから、再びスタイラスを滑らせる。新しいインクの軌道。やはり、傾いている。また、消す。
「……あと少し。頼むから」
沈黙に塗り潰された六畳の空間に、短い呟きが落ちた。その声音は、自分の喉から出力されたものとは思えないほど乾いて、見知らぬ他人のように響いた。
最後に生身の人間とプロトコルを交わしたのは、一体いつのタイムラインだったか。二日前か、三日前か、あるいは一週間前か。東京の片隅、家賃の安いアパートに自閉し、ただ液晶の底だけを見つめて生きる者にとって、カレンダーの数字などとっくに意味を喪失していた。すべては、ひとつの肥大化した退屈な周期のなかへ融けていく。
チリッ。
机の隅、伏せられたスマートフォンの筐体が一度だけ短く震えた。微小な振動が、散らばったネームの原稿用紙を僅かにずらす。木の天板の影を切り裂くように、バックライトが一瞬だけ明滅した。
㠪が捉えたのは、脳細胞が暗記してしまっている特定の四文字。
[編集・斎藤]
『橘さん、三話の進捗はどうですか。最終のデータ入稿は明後日の午前九時厳守でお願いします。先月のような遅延は二度と許されません。編集長もこのプロジェクトの数値を厳しく監視しています』
スマートフォンに指を触れることはしなかった。姿勢を変えることすらしない。ただ、発光する文字列の残像を視界の端で値踏みし、バックライトが再び減光し、完全に消灯するのを待った。闇への、再収束。
外側の世界に生きる連中は、いつだってミリ秒単位の正確さを要求してくる。窓の向こうのリアルは、目眩がするほどの速度で回転を続けていた。あらかじめ決められた運行表。寸分の狂いもなく駅へと滑り込んでくる冷たい列車。舗装路を踏みしめる、目的地の明確な靴底の群れ。彼らはこの身を、その騒々しいシステムという名の歯車へ強制的に組み込もうとする。
だが、歩調はあまりにも遅すぎた。あるいは、内の関数が、その境界線を踏み越えることを頑なに拒絶しているのか。一度でも外へ踏み出せば、見知らぬ他人の雑音、苛立たしげなクラクション、電車の駆動音という濁流のなかに、あっという間に精神の輪郭を溶かされてしまう。だから、内側から鍵を閉める。灯りの消えたこの部屋に、ただ一人、取り残されることを選ぶ。
スタイラスをプラスチックのホルダーへ、ゆっくりと戻した。右の掌を開き、石のように冷え切った手首の関節を、もう片方の指先で静かに揉みほぐす。鈍い痛みが、前腕を伝って肘の奥へと浸食していく。十数時間、一度も上体を起こさずに前傾姿勢を維持し続けた代償。
視線が、ゆっくりと移動していく。厚手のカーテンに遮られた窓ではない。メインモニターの隣、セカンドスクリーンの右下隅で、常に開かれたままになっている小さなウィンドウ。
オンラインゲームのクライアント。
ここ数日、一度として終了したことのないプログラム。漫画の背景にインクを落とし込んでいる最中も、その箱庭は常にバックグラウンドで機能し続けていた。
冷たい電子の海の底。けれどそこにある空は、現実とは違って、いつだって清潔な一本の青色を維持していた。大都市の排気ガスもなければ、編集部からの重苦しい圧迫のパルスもない。耳に馴染みすぎた初期の街のBGMが、一定の旋律を繰り返して鼓膜を撫でる。時折前を通り過ぎていく、誰かの設定したアバターの歩行モーション。ピクセルで描写された噴水が、無機質な光の粒子を散らしていた。
自身のアバターは、街の中央座標に佇んだまま、動かない。初期装備に毛が生えた程度の、ひどく地味なグラフィック。システムに規定された待機モーションに従って、僅かに上体を揺らしている。寂寞としたドットの塊。現実の持ち主の姿を、そのまま反転させたかのように。
マウスを滑らせ、カーソルをイラストのキャンバスからゲームのウィンドウへと移動させる。クリック。位相の切り替え。フレンドリストを開いた。
登録されているのは、片手の指で数えられる程度の、ひどく短い羅列。数ヶ月前、初心者用のクエストを消化するために、一時的に同期しただけの見知らぬ他人のアカウント。彼らのランプは、もう二度と灯ることはない。ただ、最上段の、一つの文字列を除いて。
――Naoya - Offline
㠪のアルファベットの並びを、数秒間、ただじっと見つめ続けた。数字の飾りも、過剰な装飾もない、ひどく簡潔なID。
そのアカウントの持ち主は、この仮想空間のなかで出会った、最も奇妙なストレンジャーだった。
㠪は効率的な攻略方法を語ったこともなければ、武器のステータスについて訊ねてくることもない。他のプレイヤーのように、しつこく現実のSNSのアドレスを要求してくることもなかった。パーティを組んでいる間、彼はただ、こちらのキャラクターの隣を歩いていた。歩調に合わせて、自分のアバターを滑り込ませてくる。ネームの歪みを修正するために、唐突に操作を放棄して静止しても、何も言わずにただ、待っていた。
㠪の存在はひどく静かだった。けれど、その沈黙は決して冷たくはなかった。それはまるで、言葉にされない理由をそのまま置いておけるような、空き部屋のような静謐。何の要求もなく、期待の重圧もない。
名前の横、最終接続のログには、正確な数字は出力されていなかった。システムが更新を止めて久しい、決まりきった灰色の空欄。
「まだ、来ないんだね……」
細い呟きは、部屋の冷たい壁に吸い込まれて消えた。椅子の背もたれに身体を深く沈め、液晶の底を見つめる。二人のチャットウィンドウの真ん中で、一本の白いカーソルが、一定のプロトコルに従って明滅を繰り返していた。交わされる言葉はいつも、一文字か二文字の残滓ばかり。
『どっちでもいい』『うん』『いーよ』
顎を左手に預け、ただ待った。名前の横の灰色の空欄が、いつか鮮やかな緑色のランプへと反転する瞬間を。そのパルスが、今夜のタイムラインに用意されているか否か、確証など何処にもないのに。
けれど、その不確定さのなかにこそ、奇妙な居心地の良さが漂っていた。少なくともこの電子の海の底にいる間だけは、自分が「何処で待てばいいのか」その座標だけは明確に分かっているからだ。
いつもと同じスポーンポイント。決して老いることのない、ドットの青空の下で。




