第59章 新宿を歩けば
新宿の境界線を染め上げる夕刻の空は、ゆっくりと、不完全なグラデーションの朱色へとその関数を反転させていた。放たれた淡い残光が、昨夜の豪雨の残渣を吸い尽くしてクリーンになったアスファルトの表面に、歪な明滅を乱反射させている。直哉は緩慢な、急ぐ理由を持たない歩調のまま、退勤時間の運行表に従って舗装路を埋め尽くし始めた膨大な他人の濁流を、ただ静かに踏み抜いて前進していった。
苛立たしげなクラクションの音波、都営バスの駆動音、見知らぬ群衆の吐き出す他愛のない雑談の不協和音。それらの雑音はすべて耳の奥へと容赦なく侵入してきたが、どうしてだか、もう以前のように俺の脳細胞を 抉るような不快なノイズとしては響かなかった。一歩ずつの歩幅は酷く軽やかで、安定を維持していた。現実の世界の地平に強制着陸を果たした俺の肉体は、すでに、自分だけの確固たる正しいレールの軌道を取り戻していたからだ。
暗いパーカーの首元には、あの過剰なスペックのヘッドフォンの筐体が、受動的に引っ掛けられたまま静止していた。皮膚が捉える冷たいプラスチックの手応えは、今やこの世界のなかで確かに彼女と同期していたのだという事実を繋ぎ止めておくための、正当な記憶の錨。俺は何の音声データも再生してはいなかった。ただ、この騒々しいリアルの音波を、フィルターの介在しない剥き出しの質量のまま耳の奥へと収め、液晶の壁という名の障壁を完全にデリート(消去)したかったのだ。
㠪宿の高層ビル群が東の地平へと長い影の方程式を引き延ばしていく境界線を、直哉は真っ直ぐに歩行していった。通勤列車の待機列へと吸い込まれていく人々の群れを掠めながら、もう一度だけ、頭を垂直に起こして空を見上げた。巨体の建造物の隙間に切り取られた黄昏の関数は、目眩がするほどに生々しく拍動しており、それは液晶モニターの最高解像度をもってしても、二度と模造することのできない本物の現実の色彩だった。
㠪レイという少女の現実の途絶が残していった胸の真ん中の空洞は、未だに消え去ることはなく、永久の空白としてそこに自閉していた。けれど、俺はもう、その澱に対して無駄な焦燥のインクを零すような真似はしなかった。あの壊れたサーバー時間のエントロピー暗号の奥底で、確かに一つの美しい魂とハンドシェイクを交わしたのだという修復不可能な証明コードを胸に抱いたまま、俺はただ、このリアルな地平を前進し続ける。
㠪調は自然と、商業区の片隅にある巨大なスクランブル交差点の座標へと導かれていった。対向車線の舗装路の向こう側、ホログラムホライズンのように巨大なデジタル看板のバックライトが一本ずつ点灯を開始し、夕闇の侵食によって輪郭を失いかけていた街並みを毒々しい原色に染め上げていく。その交差点の死角、行き交う群衆の雑踏に埋もれるようにして、クラシックな 構造線を維持した一軒の小さな書店が、しんと凪いだ静謐を保って佇んでいた。まるで、俺の内のすべての方程式が、最期のクローズコードを出力するための終着点として、そこで静かに待ち焦がれているかのように。




