第60章 街角の本
その書店のショーウィンドウの前で、直哉の歩行モーションは完全に静止した。メインモニターを凝視するかのように、瞳のピントは、今週の最新単行本が配置されたディスプレイラックの中央座標へと釘付けにされていた。
そこには、酷く削ぎ落とされたミニマルな装丁をした一冊のコミックスが実体化していた。
白黒のインクで描写されたカバーイラスト。それは、二つのデジタルアバターがピクセルで構成された街の壁に寄り添って腰掛け、共に清潔な一本の青空を見上げている景色だった。線の輪郭は繊細で、スタイラスの描線はどれも、剥き出しの確固たる意志を伴って紙の上に刻み込まれている。直哉の脳細胞は、一秒の遅延すら経ず、その形状の正体を一瞬で腑に落としていた。
心臓の搏動は緩やかだったが、胸の真ん中を 抉るような、深く重い波形を伴って肺の奥を震わせた。
新しい紙の匂いと珈琲の残渣が漂う店内の空間へと、直哉は一歩を踏み出した。頭上で、小さなドアベルの音声パルスが短く弾ける。
新刊が山積みにされたメインカウンターへと近づき、僅かに震える右の手首を前方に滑らせて、その物理的な単行本の束から一冊を掴み上げた。指先が触れたカバーの紙質は、心地よい粗いテクスチャの質量を伴って皮膚の表面に帰還してきた。
書店の鋭い主照明を浴びて、表紙の最下部が鈍く反転する。そこには、銀色のインクで配列された文字列が、静かに光を反射していた。
――遺作:橘レイ メモリアル単行本。
㠪っくりと本を反転させ、カバーの折り返し(袖)にインクで刻まれていた、編集長・斎藤健二の手による短い解説文のパルスを網膜に収めていく。
『隔離された孤独と、電子の網を潜る繋がりの歴史を紡いだ一連の短編集。クリエイターの運行表が永久にデリートされる直前、そのコンピュータの底に残されていた最期のネーム原稿を、我が社のシステムが奇跡的にサルベージ(回収)し、ここに完結した。期日通りにこの原稿データを待機列の底へとインプット(送信)することを助けてくれた、何処かの名もなきストレンジャーへ、深い感謝を捧げる』
㠪直哉は唇の端を、自嘲ではなく、ひどく静かな形を伴ってほんの少しだけ綻ばせた。熱い液体の雫が目頭から零れ落ち、カバーの裏ページの表面を濡らして、店内の残光を歪に乱反射させた。
㠪の夜、俺が時間の防壁を潜り、不法なインジェクションを繰り返して執行した100%の完了コードは――電子の箱庭のロード画面を書き換えただけではなかったのだ。
㠪のパルスは、現実の世界における彼女の生の証明を正しいレールへと誘導し、これまで彼女の存在を完全に無視し続けていた外側のリアルの住人たちの手元へと、確かにそのインクを送り届けたのだから。
㠪橘レイという少女は、あの崩落した四畳半の暗室のなかで、もう一人きりで自閉してはいなかった。
㠪の実態、彼女の声、そして彼女が胸の真ん中に抱え込み続けていたすべての孤独の方程式は、今や現実の世界の歴史の上で、合法的に、正当な確定コードとして登録され、広く共有されていた。
㠪の方程式は、同時に三つの次元(位相)を 穿ち開いていた。オンラインゲームのなかのメモリアル、ネットの網の底のアーカイブ、そして、今この手の中にある紙の単行本という名の、確固たる物理的な質量。
㠪はカウンターへと歩調を進め、その単行本を提出し、正規の仕様(紙幣)を流し込んで決済プロトコルを完了させた。レジの店員はコミックスを茶色のクラフト紙の袋へと格納し、直哉の手元へとハンドシェイク(手渡し)してきた。掴み上げたその包みは、俺の掌のなかで、酷く重苦しい、確かな重量を伴って静止していた。
㠪の茶色の袋を胸の真ん中へと強く抱き締めながら、直哉は書店を離れ、再び外側のリアルの地平へと一歩を踏み出した。
㠪宿の深夜の夜気が、俺の肉体を包み込み、季節の推移を告げる温かい風の関数が、冷え切っていた顔の皮膚の表面を静かに撫でまわしていった。




