第58章 共有された断片
電脳研究室の巨大な窓の硝子を潜り抜けた白々しい朝の光線が、整然と並び立つモニターのカラムの上へと、等速の明滅を反射させていた。直哉は窓際に敷設された座席に身体を預け、ぶ厚いカーペットに吸音されながら満ちていく、見知らぬ他人の音声パルスをただ聴いていた。
周囲の学生たちがソースコードをタイピングする無機質な音波の隙間で、最奥の死角から漏れ聞こえる雑談の波形が、直哉の脳細胞のピントを固定させていく。
「なぁ、あのゲームのロード画面にインプットされてるポートフォリオのサイト、もう開いてみたか?」
「ああ、昨夜気になって検索窓に流し込んでみたんだ。一年前の震災の爪痕でカレンダーの頁を止められた、名もなきアマチュアの遺言だったんだな」
「インクの描線が酷く綺麗なんだよな。静謐なのに、生々しい実体がある。フォーラムのなかでは、彼女の作品を単行本として正規にデリート(出版)してほしいっていう署名運動が開始されてるらしいぞ」
直哉は、メインモニターの液晶に開帳されている卒論のダッシュボードを、ただじっと見つめ続けた。キーボードの上に添えられた指先が静止する。
己の唇の端が、ひどく静かな形を伴って、ほんの少しだけ綻んだ。
新世界バージョン5.0の稼働初夜に発生していた、あの巨大な混濁の波紋は、今や現実の世界の時間の運行に従って、確固たる正当な評価のデータへと移行を完了させていた。『Node 2026』の時間の裂け目から、俺の指先が辛うじてスニッフィング(吸引)して持ち帰ったデータの断片は、もう俺の四畳半の暗室のなかに自閉した秘密の方程式ではない。
㠪は外側のリアルの地平へと解放され、今や数十万人もの見知らぬ他人の記憶のセクタを侵食し、誰もが[Tachibana Rei]という記号の仕様を、深い敬意の質量を伴って網膜に収め始めている。
㠪のタイムカプセルは、完全な共有データ(パブリック・メモリアル)へと変質を遂げていた。
かつて大都市の喧騒を拒絶し、灯りの消えた部屋の真ん中で内側から鍵を閉めていた一人の少女の呼吸が、彼女の遺した不完全な線の軌道を潜って、ついに本物の現実の境界線へと届いたのだ。
「一ノ瀬、これが修正を完了したゼミのコントロールシートだ」高橋が無造作にマウスの傍らへ一枚の書類を不法投棄し、直哉の思考を強制終了させた。「後ろの連中、さっきからあの古いオンラインゲームの仕様について騒いでるな。お前、まだあそこに繋いでるんだろ? 橘レイってIDのこと、何か知ってるか?」
直哉はその書類を掴み、バックパックのなかの正しいセクタへと、静かな動作で格納した。
「ああ、知ってるよ」
㠪い呟きは、窓の向こう側に広がる、目眩がするほどに清潔な新宿の一本の青空へと向かって放たれた。
「彼女は……酷く綺麗に、インクを動かす人だった」
高橋は小さく首を縦に振り、それ以上の関数の要求はしてこなかった。
直哉は座席から上体を起こし、あの過剰なスペックのヘッドフォンを首元へとパッシブに引っ掛け終えると、電脳研究室の境界線から一歩を外側へと踏み出した。
㠪学の課題という名の運行表はすべてクリアした。電子の箱庭の底に敷設した仮想の橋も、完璧な調和を保って自立している。
さあ、帰ろう。
㠪に残されているのは、この現実の世界の地平において、すべてのバラバラになった方程式の最下部に、ただ一つの正しい終了コード(エンドマーク)を書き加えるための、最期のプロトコルだけだった。




