第57章 メモリアル・ローディング
セカンドスクリーンの硝子面を埋め尽くしていたクリーンな白一色の発光が、ゆっくりと、極小のドットの密度を凝縮させながら、液晶の底へ着陸していった。いつもならアバターの実体化と共に鼓膜を撫でるはずの、初期街の瑞々しい旋律は、どこからも響いてはこない。静寂。新システムのオーディオプロトコルは意図的にシャットダウンされ、仕様通りの過酷な沈黙だけが、六畳の暗室へと重く沈殿していた。
液晶のバックライトが減光の仕様に従って緩慢に色を失い、白一色の虚無の真ん中に、一枚の酷く直截な白黒のスケッチデータが開帳された。
構成要素としての線の輪郭は繊細で、鉛筆の描線はどれも、剥き出しの確固たる意志を伴って硝子の上に刻み込まれていた。
作業机の前で力なく上体を 伏せ、乱雑に散らばったネームの原稿用紙の死体に囲まれながら、発光する画面を見つめ続けている一人の少女のシルエット。そしてその頭上に描かれた、何も書かれていない白一色の風船(吹き出し)の真ん中で、ただ無機質な三点リーダーの記号だけが点滅していた。――(……)。
㠪直哉は、まばたきをすることすら忘れて、その液晶の向こう側の方程式を凝視し続けた。
㠪の夜、旧サーバー(レガシーノード)が永久消去される最後の数秒間の境界線において、俺の指先が時間の防壁を潜り、トランジットメモリの深淵から強制的にスニッフィング(吸引)して持ち帰った、あの『draft_ch3_rough.psd』の生データの残片。
一年前のあの執行日、電力供給を絶たれる直前の暗室で橘レイがスタイラスを動かし続けた最期の足跡は、電脳空間のゴミ箱へと不法投棄されてはいなかったのだ。
㠪開発チームは、あの破綻しかけていたファイルを完璧な数式のうえへとマージ(統合)し、修復プロトコルを執行し終えていた。
㠪らはこの未完の遺言を、公式な新システムバージョン5.0への大規模移行の際、世界中のすべてのプレイヤーが接続するたびに網膜へ写し取らなければならない、正当なロード画面へと昇華させていたのだ。
㠪の白黒の線画の右下隅、極小のシステムログのカカラムのなかに、汚れのない白いシステムインクが一定の周期でパッシブな明滅を繰り返していた。
`Loading Patch Data: “Tachibana Rei Memorial Archive”`
`Status: 100% Sync Complete.`
㠪の文字列を、直哉は数分間の猶予が消費されるまで、ただ静かに見つめ続けた。
㠪の夜のように、胸の真ん中を冷たく 抉るような息苦しさが胃の腑の底から 侵食してきたが、今度の彼の唇の端には、ひどく静かな形を伴った微笑の残渣が灯っていた。頬の表面を滑り落ちていく熱い液体の雫は、もう俺の肉体を圧迫するような焦燥の重量を帯びてはいなかった。
㠪の線の価値は、現実のコンクリートの質量のなかに埋没して掻き消えたわけではなかった。
㠪のちぎれたデジタルな魂の断片は、新しい新システムの最適化によってデリート(消去)されることなど決してなかった。
㠪の方程式は正しい移行を完了し、かつて彼女にとっての唯一の、孤独の呪縛から逃れるための避難所であったこの電脳世界の入り口の底で、永久の歴史の一部として実体化していたのだ。
㠪から先、新しい住人が接続ボタンを叩くたびに、彼らは強制的に、かつて一本の白いカーソルを見つめながら、あの『タイピング中……』の三点リーダーの奥で誰かの訪れを喉を乾かせながら待ち焦がれていた一人の人間の、その静謐な隔離の空間を肉眼で見届けることになる。
㠪はマウスを滑らせ、アセットのロードが完全終了し、アバターが騒々しい新世界の初期配置点へとスポーンしていくのを見届けた。
㠪囲に実体化していく見知らぬ他人のデータの群れを一度だけ網膜に収め、それから、今夜の、そして人生の最後の終了コード(ログアウト)を強く叩きつけた。
㠪ゆっくりとノートパソコンの液晶を閉じ、自室のすべてを、完全な、しかし酷く穏やかな安息の暗闇のなかへと再収束させていった。




