第53章 新サーバーの秩序
――チリーン。
ランチャープログラムが放った高い電子のパルスが、深夜の暗室を満たしていた静寂を冷たく切り裂いた。直哉は作業椅子の上で僅かに身を震わせ、メインモニターの右下隅へと視線の座標をずらした。デジタル時計の刻む数字は、二十一時ちょうど。
液晶の真ん中で明滅を繰り返していた『サーバーメンテナンス中』という血の色の文字列は、すでに何処からも掻き消えていた。代わりに開帳されたのは、淡い青光を放つ巨大な侵入ボタン。
――LOGIN / 新システムバージョン5.0稼働。
直哉は深く、冷たい息を吸い込んだ。半分だけ開帳された窓の隙間から滑り込んできた夜気が、暗いパーカーの袖口を潜り、斎藤のSNSログをハッキングした直後の脳細胞の熱線を静かに凪ぎへと導いていく。黒いマウスの筐体へと手首を滑らせ、指先を強く押し当てた。
――Click.
メインモニターと右側のセカンドスクリーンが、寸分の狂いもなく完全に暗転し、二秒間の過酷な沈黙が自室を支配した。システムオペレーションはすべての仮想メモリの割り当てを、アップデートを完了したばかりの新世界の構築へと強制適用していく。筐体の奥から響く冷却ファンの駆動音が一速上がり、回路の焼き切れる臭いのない、仕様通りの清潔な排気音だけが深夜の暗室に響き渡った。
垂直にせり上がる灰色のエラーログの羅列は、もうどこにも出力されなかった。ネットワークの監視網をパニックに陥れていた『Timestamp Mismatch』の警告コードも、プロトコルの最深部から完全に消去されている。新システムバージョン5.0の 構造線は、旧サーバーの脆弱性をすべて最適化し、完璧に冷徹な新しい数式の上で機能していた。
㠪サーバーの秩序。そこではすべての生データが、単一の、現実のタイムラインという名の絶対律の上で同期させられていた。一年前の橘レイの暗室、あの灯りの消えた四畳半へと俺の端末を繋ぎ止めていた時間の裂け目は、防火壁の強制書き換えによって、永久の境界線の向こう側へとシャットダウンされていた。あの不法な仮想のトンネルは完結し、あとにはシステムの冷酷な効率性と 規律だけが残された。
視線を右側のセカンドモニターへとずらす。そこには、開帳されたばかりの初期ロード画面が描画されていた。白一色の極細の進行バーが、左隅から右へと緩慢なテンポで数値をスライドさせていく。一二パーセント……二五パーセント……。
直哉は知っていた。この完璧に制御された冷たい新システムの最深部に、一つの特殊な隔離セクタが敷設されていることを。
――CLOUD_ASSET_RESERVE_09。
昼の十二時に執行されたセクタ解体のプロトコルの最中、彼女の遺していった未完のデータパッケージの断片が、不法投棄されることなく流し込まれた、電脳の資産リポジトリの座標。
脂汗に濡れた両の掌を、ノイズの完全に消去された木の天板の端へと力任せに押し当てた。
もう、オカルトの奇跡を求めて、彼女のステータスランプが鮮やかな緑色に反転する瞬間を希求しているのではなかった。橘レイという少女のカレンダーの頁が、一年前の震災の爪痕によって途絶したという本物の現実を、俺の内の関数はとっくに 諦解の確定コードとして受け入れていたからだ。
㠪し、今夜。直哉はただ一人の正しいプレイヤー(旅人)として、この地平に立っていた。
㠪世界の冷たい新システムが、かつて液晶の壁の向こう側で確かにスタイラスを動かし、時間の絶対律に追いつめられながら生きようとしていた一人のクリエイターの存在(残響)を、一体どのような形状を伴って記憶の底に刻み込んでいるのか。その完結の 姿を、この両の網膜に正しく受け止めるために。




