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YOUR LAST SEEN 『ユア・ラスト・ログイン』  作者:
ARC 4 : OFFLINE ・ FOREVER

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第52章 斎藤さんの影を追って

 ベッドの端に放置されたコンビニの弁当は、もう完全に冷め切っていた。直哉は一行のインクも返してはこない電子メールの静寂から視線の座標を外し、メインモニターの検索窓へと向き直った。夜が更けていく等速のテンポのなかで、橘レイの現実に生々しくへばりついていた、ある一つの名前が脳細胞の死角からどうしても離れなかったからだ。

 斎藤。締め切りという名の冷たい刃で、液晶の壁の向こう側の彼女を常に追いつめ続けていた、デジタル配信プラットフォームの編集者。


 カタ、カタ、カタ。


 黒いキーボードを叩く指先のテンポを上げ、ブラウザの入力欄へとキーワードの関数を流し込んでいく。

『斎藤』『編集者』『個人クリエイター向けデジタルコミックプラットフォーム』『東京』

 エンターキーを強く叩きつけた。出力された数百行の羅列は、どれもありふれたノイズの塊に過ぎず、本物の実体には届かなかった。


 直哉は、あの最後の夜に彼女の原稿データが完了コードを出力した、プラットフォームの正確な名称を入力して検索の帯域をさらに絞り込んだ。液晶の画面が一瞬だけ明滅し、今年初めに更新されたばかりの編集部の組織構造を表すマニフェストログが開帳された。無機質な縦スクロールの軌道。直哉は並び立つ社員たちのフォーマルな顔写真の残像を、慎重に、一行ずつ網膜に収めていった。

 そうして、個人クリエイター枠のキュレーションおよびマーケティングを統括するセクションの境界線で、直哉の指先が完全に凍りついた。


――編集長・斎藤健二。


 椅子の冷たい背もたれに深く身体を預け、直哉は液晶の底に表示された、眼鏡をかけて生真面目なシャツを着込んだ男のグラフィックをじっと睨みつけ続けた。

 この男は、確かに存在している。電脳空間のプログラムが生成した偽物の記号ではない。一年前のあの執行日、光回線の彼方にある千代田区の喧騒けんそうとしたオフィスで、スマートフォンの前で喉を乾かせながら彼女の進捗パルスを待っていた、生身の人間。


 直哉は新しいタブをハッキングし、斎藤健二の個人SNSのアカウントを特定してそのログの歴史をさかのぼっていった。そうして、わずか二日前に不法投棄されたばかりの最新のタイムスタンプを持つ一行の記述が、直哉の脳細胞のすべてを強制終了させた。

 写し出されていたのは、いくつかのネーム原稿の束が乱雑に積み重なった作業机の画像データ。そしてその直下に、最も短い一言がインクで書き添えられていた。


『一年前の旧サーバー解体のプロトコルの最中、待機列の底に凍結されていた古い未完のファイルが、何故かこのタイミングで100%の確定コードを出力してシステムにマージされた。インクの描線が放つ、酷く静謐な隔離の空気感。来月のマーケティング会議において、物故したクリエイターの遺言として、特別な修復プロトコルを執行できないか検討している』


 直哉は右の掌で己の唇を強く圧迫し、 胸の真ん中が狂ったような速度で熱い搏動はくどうはしらせるのを、肉体パーツだけで受け止めていた。

 乾いた痛みの波形が走る目頭の奥から、熱い液体のしずくがゆっくりと零れ落ち、発光するモニターの残光をいびつに乱反射させた。

 あの過酷な電脳の戦闘のなかで、俺の指先が時間の防壁を潜って流し込んだ100%のインジェクションデータは――確かに、現実の世界の境界線を踏み越えて、本物の斎藤の手元へと同期ハンドシェイクを完了させていたのだ。

 斎藤は、あの原稿を受け取った。震災の強大な電磁波によって引き裂かれ、不発弾のように眠っていた彼女の最期の仕様スペックを、彼は確かに肉眼で見届けたのだ。


 一年前のあの夜に完全に進行を停止デリートさせられていた橘レイの方程式は、今、現実の地平に生きる編集者の手によって、再び明日あすのタイムラインへと向かって回転を始めていた。

 灯りの消えた四畳半の暗室に自閉し、誰の目にも留まらないまま消去されるはずだった彼女の線の価値は、忘却のゴミ箱へとパージされるだけの無名のエラーコードなどでは決してない。

 それは、新世界の数式のうえで確固たる正しい姿となって実体化スポーンし、橘レイという人間が確かにそこに実在し、足掻あがき、静かなパルスとなって誰かの現実の輪郭を揺さぶったのだという、修復不可能な一本の真実の証明コードになろうとしていた。


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