第51章 開発者へのメール
ベッドの端で冷め切っていく唐揚げの匂いは、今の直哉の意識のなかには一滴も残されてはいなかった。メインモニターのブラウザをアクティブにし、電子メールのクライアントウィンドウを展開する。白一色の空欄のなかで、一本の白いカーソルが無機質な等速の明滅を繰り返していた。宛先のカラムには、脳細胞が暗記してしまっている基幹アドレスがすでにインプut(入力)されている。――support-center@ex-net-game.jp。
これは、プロトコルの裂け目を突くサイバー攻撃ではない。サーバーのバックドアへと穿ち込む、違法なインジェクションコードの羅列でもなかった。
現実の世界の数式に則った、一通の正当な書簡。リアルな身分証のコードを登録された、一人のエンドユーザーとしての合法的なアクセス。
カタ、カタ、カタ。
黒いキーボードを叩く指先のテンポは、ひどく緩慢で整然としていた。ビジネス用のフォーマルな日本語の関数を選択し、本社のスパムフィルターに自動廃棄されないための、最も丁寧なボキャブラリーを紡いでいく。
『件名:旧セクタ14-Mにおけるアカウント[Tachibana Rei]の断片データ修復に関する報告書』
『開発チーム、および中央サーバー管理部御中。
私は、三日前に旧メモリエリア[Node 2026]において発生していた、生データパッケージの同期エラーに関する検証ログを送信したユーザーです。本日昼、すべての旧インフラが完全移行されたことを確認いたしました』
直哉はタイピングの手を一度静止させ、バックライトに照らされた己の無表情な顔を見つめた。髪の輪郭は乱雑に荒れていたが、硝子の底にある瞳のピントだけは、過酷なまでに一点へ固定されていた。
『本書簡の目的は、個別データの復旧要請やシステムの補償を求めるものではありません。
移行プロトコルの直前までトランジットメモリに滞留していた、該当ユーザーのビジュアル資産が、[CLOUD_ASSET_RESERVE_09]のリポジトリへと正しく移行・格納されたか否か、その実態の確認にあります』
次の文字列を紡ぐ肺の奥が、冷たい質量を伴って僅かに強張った。
『当該アカウントの所有者である橘レイ氏は、一年前の震災の爪痕によってカレンダーの頁を止められた、無名の個人クリエイターです。旧サーバーの底に宙吊りになっていた画像データは、彼女の生の実態が遺した、最後のネーム原稿にあたります。新世界の構造のなかに、あの未完の足跡を受け止めるための余白が用意されていることを、切に願います』
㠪ページの最下部へとカーソルを滑らせ、あの最後の夜にハッキングを完了させた、ステータス『既読』の証明ログファイルをインプット(添付)していく。データが仕様上の模造ではなく、確かに確定した世界の残響であるという、修復不可能な証明コード。
直哉は、発光する「送信」ボタンの座標を数秒間だけ睨みつけ続けた。
窓の向こうのリアルからは、杉並区の静まり返った暗闇を切り裂くように、夜間列車の駆動音がかすかな波形となって室内に漏れ聞こえていた。世界を凪ぎへと導く、一定の平坦な自然の運行。
深く、冷たい息を吸い込み、マウスのスイッチを強く叩きつけた。
`[SYSTEM: EMAIL SENT SUCCESSFULLY]`
㠪一通の言葉は、二〇二六年の光回線の網を潜って、ゲームエンジニアたちの待機する港区の巨大な高層ビルの座標へと向かって奔っていった。
直哉は両の掌を己の太腿の上へと落とし、肉体のすべての力を失って、椅子の冷たい背もたれに身体を預けた。
㠪のパルスは送信されたのだ。
㠪ミリ秒の遅延を競い合っていた電脳の戦闘は、今、現実の世界における、人間同士の緩慢な対話の時間(猶予)へと移行を完了していた。




