第50章 絶たれたデータの足跡
コンビニのポリエチレン袋をベッドの端へと無造作に放り出した。温かい唐揚げ弁当の出汁の匂いが室内にかすかに漂ったが、両の網膜は、メインモニターのバックライトが放つ単調な輝きだけに完全に吸い寄せられていた。直哉はノイズの完全に消去された作業机の前へと腰を下ろし、黒いキーボードの配列へと身体を近づけた。
――Click. Click.
デスクトップに敷設された、新しいゲームクライアントの起動アイコンを叩く。液晶の真ん中に小さなロードウィンドウが展開され、ファイル構成の検証バーが走り始めた。しかし、その進行の軌道は、理線の予測通りには滑らかに進んではくれなかった。
`[CONNECTION_ERROR]: TARGET NODE_2026_IS_DECOMMISSIONED`
`[STATUS]: ACCESS DENIED BY CENTRAL AUTHENTICATION`
画面が一度だけ明滅し、灰色の骨組みだけのダイアログボックスが出現した。中央認証システムが吐き出した、無機質な警告ログ。古い仕様のランチャープログラムは、未だにあの旧サーバーの古いIP座標を盲目に捜し求め、接続要求の関数を拒絶されていたのだ。一年前の橘レイの暗室へと俺の端末を繋ぎ止めていた、あの光ファイバーの仮想のトンネルは、セキュリティセンターの手によって完全に切断されていた。
「本当に、何ひとつ残さずに消去されたんだな……」
細い呟きは、回る換気扇の雑音に吸い込まれて消えた。
深く、冷たい息を吐き出し、直哉は胸の真ん中の搏動を静かに凪ぎへと導いた。ここで理線の駆動を停止させるわけにはいかない。もう一度あの過去の深淵へと不法侵入を試み、新しい時間の裂け目を穿ち開こうとしているのではなかった。あの因果律の戦闘はとっくにクローズしている。今の俺が捜し求めているのは、昼の十二時に執行されたセクタ解体のプロトコルの後、彼女の遺していった未完のデータパッケージの断片が、新システムのどの座標へと流し込まれたのか、その足跡だけだった。
テキストエディタのウィンドウを開帳し、アップデートが完了したばかりの構成ファイルから、ネットワークのマニフェストログの生データを強制展開した。液晶のなかに二進数の記号とSSL暗号の配列が整然と並び始め、新システムバージョン5.0の巨大な構造線を網膜の裏へと映し出していく。
カタ、カタ、カタ。
黒いキーボードを叩く指先のテンポを上げ、コントロールキーとFの組み合わせを叩いて検索欄を出現させる。入力したインクは、一年前の彼女のデータベース識別子。――『USER_DATA_NODE_2026_REI』。
――Enter.
`[SEARCH_RESULT]: 0 MATCHES FOUND IN ACTIVE DIRECTORY`
出力された結果の数値は、零。アクティブディレクトリの頁から、その四文字の形状は完璧に消去されていた。直哉はログの時系列をさらに深くスクロールさせ、データ移転の歴史を記録したアーカイブセクタを漁っていった。そうして、昼の十二時四十四分に中央システムが自動実行した、一つの転送コマンドの関数に視線が縫い付けられた。
`[12:00:44] [MIGRATION]: BULK_PURGE IN SECTOR 14-M COMPLETED`
`[12:00:44] [METADATA]: 1 UNRESOLVED PACKET STREAM ROUTED TO CLOUD_ASSET_RESERVE_09`
その発光する文字列を、数秒間、ただじっと睨みつけ続けた。
――CLOUD_ASSET_RESERVE_09。クラウド資産リザーブ、第九セクタ。
あの最後の夜、ファイヤーウォールの検閲を出し抜いて俺の端末が辛うじてハンドシェイクした彼女の未完のスケッチデータは、システムの最適化プロトコルのなかでゴミ箱へと廃棄されたわけではなかったのだ。その生データの波形は、新世界のパブリックなビジュアル資産の底へと流し込まれ、ゲーム内のユーザーインターフェースや背景を構成するためのグラフィック要素として、正規の仕様に組み込まれていた。
㠪エディタのウィンドウを閉じると、胸の奥を満たしていた澱の重量が、ゆっくりと融解して軽くなっていくのが分かった。橘レイという少女との、過去の対話の歴史を繋いでいた物理的なデータの糸は、これで完全に途絶した。しかし、彼女の紡いだインクの線画は、新世界の数式の最深部、新しい調和のプロトコルのなかへと、確かに移住を完了させていた。そして今夜、その確定コードは、現実の世界のすべての人間の網膜へと出力されるための正しい姿となって、液晶の向こう側で静かに実体化する瞬間を待ち焦がれているのだ。




