第49章 通勤電車の第一歩
夜風に煽られた街路樹の梢が擦れ合う微小な音波が、アパートの薄い外壁を潜って届いていた。直哉は玄関のドアを開け、現実の世界へと一歩を踏み出すと、背後で鍵のシリンダーを短い確実な終了コードを伴ってカチリと噛み合わせ終えた。杉並区の境界線に漂う夜気は酷く冷たく、あの過剰なスペックのヘッドフォンの防壁を失った剥き出しの首元の皮膚を、冷徹な等速のテンポで撫でまわしていった。
㠪街灯の白々しい原色の黄色が、舗装路のうえに一本ずつ規則的な光の走査線を穿ち開き、移動していく俺の肉体の残像を、長い影の方程式として引き延ばしていく。深夜の住宅街のタイムラインは、驚くほどに静かな凪ぎを維持していた。橘レイの網膜が捉えていた、あの昼下がりの東京の空を切り裂く救急車の咆哮も、コンクリートの根音からアパートの骨組みをミシミシと軋ませてせり上がってきた地鳴りの波形も、ここには何処にもいやしない。二〇二七年の地平は、完璧な物理法則の仕様に従って、安全な調和を保って回っていた。
暗いパーカーのポケットの奥へと両の手を滑らせ、直哉は湿った夜の空気を肺の奥へと深くインプット(吸引)した。昨夜の豪雨が遺していった泥の匂いと、何処かの民家の換気扇から漏れ出す温かい出汁の香りの混濁。かつて、液晶の放つ淡い青光にすべての脳細胞を吸引され、モニターの壁の向こう側に自閉していた頃の俺なら、間違いなく意識の死角へとパージ(排除)していたはずの、取るに足らない微小な現実の関数。
、今の俺には、その一つひとつのディテールが、過酷なまでに生々しい実体を持って胸の真ん中へと沈殿していく。目的地の明確な旅路などなくとも、この舗装路をただ一歩ずつ踏みしめて歩行していく行為そのものが、あの偽物のドットの初期街で十数時間も静止し続けるよりも、遥かに確かな生気を俺の輪郭に与えてくれていた。
――チリーン。
自動ドアの硝子面を潜った刹那、スピーカーの回路が短い電子のパルスを弾いた。
おでんの什器から立ち上る熱気と、冷蔵ケースのファンが排出する冷気の不協和音。直哉は惣菜のカラムへと歩調を進め、一つの唐揚げ弁当のパックと、糖類の未登録な緑茶のボトルを無造作に掴み上げた。レジのカウンターの前で決済のプロトコルを待つ間、視線の座標は、マガジンラックの片隅に不法投棄されていた週刊誌のヘッドラインへと吸い寄せられていった。
㠪そこにインクで刻まれていたのは、次世代ネットワークインフラの広域実証実験に関する専門用語の羅列。
――超高速。低遅延。完全なるエントロピー暗号。
㠪の唇の端が、ひどく静かな形を伴って、ほんの少しだけ綻んだ。レジの店員からポリエチレンの袋を受け取り、再び静まり返った路地の暗闇へと歩調を滑り込ませる。電脳のテクノロジーは、こちらの都合などお構いなしに前進を続け、過去のすべてのシステムエラーやバグの残痕を、より強固な新システムの数式によって上書き(デリート)していく。
『Node 2026』という名の時間の裂け目で、俺たちの因果律を強制同期させたあの平行世界のアノマリーは、二度とコンピュータの歴史のなかに実体化することはないだろう。それは、広大な情報海の片隅にただ一度だけ発生した、未完の、しかし絶対的な偶然。隔離された孤独のなかに自閉していた二人の人間が、液晶の壁を潜って互いの声を聴き届けるために、世界の数式がほんの一瞬だけしでかした、唯一の優しいバグ。
㠪路を跨ぐ小さな歩道橋の鉄の階段を、直哉はゆっくりと上っていった。足元を流れる細い水路の波形は、大都市の最奥へと向かって緩慢な速度で収束を続けている。東京の夜空の地平には、ビル群の放つ過剰なバックライトのせいで、星屑のグラフィックは一粒たりとも描画されてはいなかった。けれど、今の俺には、もうそんな完璧な絵空事の夜空など必要なかった。
㠪の中の関数は、確固たる 諦解の確定コードを出力していた。
㠪八時は、とっくに仕様通りの秒針を追い越している。
㠪サーバーの向こう側では、新システムバージョン5.0への大規模な移行プロトコルが、完全な同期を執行し終えているはずだ。
さあ、帰ろう。
㠪つもと同じ、ノイズの完全に消去されたあの作業机の前へ。
冷たく暗転しているノートパソコンの液晶を開帳し、過去の古い文明の崩壊の残響が、新世界の生コード(ソースコード)の底に、一体どのような形となってロードされているのか。それを、ただ一人の正しいプレイヤーとして、この両の網膜に受け止めるために。




