第42章 デジタル・モールス
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液晶の真ん中で、秒針のカウントダウンが冷酷に領域を削り取り続けていた。
血の色のインジケーター。それを必要以上に長く睨みつけているだけで、己の内の焦燥感の歯車が狂ったように回転を始め、胸の真ん中を冷たく 抉る。中央システムの新しいファイヤーウォールは、エントロピー暗号の壁を極限の密度にまで肥大化させ、データパッケージの検閲網を過酷なまでに締め付けつつあった。
他愛のない日常の符牒をタイピングしようとするだけで、システムは即座にリクエストを強制排除し、通信の帯域を遮断してくる。
普通のテキストデータでは、もう一年前の過去の地平へ辿り着くことは不可能だった。防衛プログラムは、キーボードから入力されるすべてのアルファベットの形状を、不法なペイロード(攻撃コード)として識別しているのだ。
「言葉が弾かれるなら……別の関数を流し込むしかない」
直哉は灯りの消えた部屋の暗闇のなかに、細い呟きを落とした。
カタ、カタ、カタ。
改造クライアントのターミナルコンソールを開帳し、新しいコマンドプロンプトの配列を 穿ち込んでいく。
文字列の送信が拒絶されるのだとしても、俺の、いや私のアバターの「位置情報(座標データ)」の数式を操作することだけは、今の指先にも許されているはずだ。ゲームの自動防衛アルゴリズムといえど、キャラクターの歩行、跳躍、方向転換といったありふれた移動の挙動まで検閲し、排除することはできない。ファイヤーウォールにとって、それらはただの正常なプレイヤーの仕様内アクティビティに過ぎないのだから。
俺は、微小なマクロスクリプトを構築し始めた。
二〇二六年の彼女の画面のなかで、俺のグラフィックに、一定の周期を持った強張る歩行モーションを強制適用させるためのプログラム。
前方に二歩進み、一秒間の静止。後方に一歩退き、二秒間の沈黙。
国際的なモルス符号(モールス信号)の打鍵を、デジタルキャラクターのX軸とY軸の移動ベクトルへと反転させていく。
`[SYSTEM: CONVERTING CODE M-A-K-A-S-I-H TO MOVEMENT VECTOR]`
`[CONVERSION SUCCESSFUL. INJECTING MOVEMENT DATA INSTEAD OF TEXT]`
㠪の方程式を確定させるため、エンターキーのスイッチを強く叩きつけた。
――Enter.
ノートパソコンの排気口から、回路の焼き切れるような長い電子の絶叫が弾けた。
右側のセカンドモニターの箱庭のなかで、暗いフードを被った俺のアバターが、理線の命令を介さないまま、突如として自動化された挙動を開始した。
前進し、左へとスライドし、それからミリ秒刻みの正確さで完全に硬直する。
一年前の二〇二六年、灯りの消えた暗室で 疲弊したまぶたを開けている橘レイの網膜には、この奇妙に歪なアバターの挙動が、そのまま生々しく描写されているはずだった。
彼女の視点の上では、それは単なる劣悪なネットワーク回線が引き起こした、重いパケット遅延のようにしか見えないかもしれない。
けれど、すべての移動ログの歴史を記憶し続けるサーバーのデータベースにとっては、その座標の連なりは、修復不可能な一本のメッセージの関数を綺麗に描き出していた。
――チリーン。
細く絞り込まれた暗号化回線の隙間を潜り抜け、一年前からの新しい文字列が、タイムラインの底へと不法投棄された。
『最近、離席(AFK)が多いな』
液晶の二文字を見つめる直哉の胸の真ん中が、底冷えするような息苦しさで 竦み上がった。
彼女は、俺がコンピュータの前を離れて退屈を貪っているのだと、そう誤認している。
現実のこの地平において、俺がどれほどのパニックに精神の輪郭を溶かされそうになりながら、この細いシグナルを時間の防壁の向こう側へと 通過させるために脳細胞を搾り尽くしているかなど、知る由もないのだ。
㠪俺はテキストを打ち返すことはせず、アバターの移動マクロをそのまま走らせ続けた。一進数のモルス符号のパルスを、メモリエリア『Node 2026』の深淵の底へと、執念深く穿ち込み続けるために。
`[DATA LINK STABILITY: 12%]`
`[ALERT: PACKET DROPOUT RATE REACHING MAXIMUM LIMIT]`
㠪発光する硝子板の全体に、ぶ厚い走査線のようなディ歪みが絶え間なく奔るようになり、電子の街並みのグラフィックを、順序を失った不完全なピクセルの死体へと切り刻んでいく。
けれど、俺の名前の直下。あの記号だけは、過酷なデータパージの嵐のなかにあって、未だに鮮やかな緑色の光を灯したまま、健気に拍動を繰り返していた。
――タイピング中……
直哉は指先が白くなるほどの圧力で木の天板の端を強く握り締め、限界を超えて不快な熱を発し続ける筐体の熱線を、ただ肉体だけで受け止めていた。
デジタルのモールス信号の関数は、すでにサーバーの底へとインプット(格納)された。
ここから先の本物の 運命は――一年前の過去の座標にいる彼女が、俺のアバターの描いた歪な挙動のなかに「奇妙な違和感」を正しく察知し、それを、あの未完の遺言の最後の頁へと、描き写してくれるか否か。
ただ、それだけの方程式に委ねられていた。




