第36章 サーバーの空白
プラスチックのペン先が硝子面を叩く不協和音は、もう何処からも響いてはこなかった。限界を超えてローリングを続けていた冷却ファンの、あの悲鳴のような駆動音も、完全に掻き消えていた。
無機質なデータセンターの真空の領域。そこに滞留していたのは、ただ隔離された回路の底で一定の周期を繰り返す、冷たいスタティックノイズの旋律だけだった。
東京の境界線、二〇二号室の暗室から発信されていたシグナルは、途中で完全に切断されていた。物理的な銅線も、二〇二六年の時間を運んでいた光ファイバーの網も、崩落したコンクリートの質量のなかに 埋没してその機能を失った。
けれど、この老朽化したオンラインゲームの主記憶装置のなかに、掻き消えることなく厳然として残り続けたナニカがあった。
処理プロトコルの中途で凍りついた、未完のデータパッケージ。
七文字目のアルファベットの境界線で、永久に時を止めてしまった文字列。
――MAKASIH
震災の強大な電磁波によって破綻したネットワークの暗号化システムは、その宙吊りになったファイルの扱い方を知らなかった。
橘レイの指先がエンターキーの関数を叩く前に回線が死んだため、二〇二七年の地平にいるナオヤのアカウントへ、そのパルスを送信することは仕様上不可能だった。
㠪、彼女の端末からプロトコルに則った正しい切断コマンド(切断シグナル)が送られてこなかったため、システムはそのデータをゴミ箱へ廃棄することもできなかった。
だから、死んだプログラムは、己の内の関数に規定された唯一の自動処理を実行した。
最後の状態を、そのままロック(凍結)すること。
メモリエリア『Node 2026』の底で、Tachibana ReiというIDのステータスは、データ送信中のモードのまま固定された。彼女の名前の直下に出力された極小のドットの明滅は、仕様を無視した周波数を刻みながら、全ネットワークの網へ同じシグナルを放ち続けた。
――タイピング中……
その波形は、電子の海の底で、何ひとつとして遮るもののない空間をただ永遠に彷徨い続けた。
秒針が分刻みの針へとすり替わり、現実の世界のタイムラインが夜から白々しい朝の頁へとめくられていっても。
㠪は、正確に一年という名の時間の防壁を潜り、遥か未来の地平に向かって、寸分の狂いもない二進数の記号を反転させて送り続け、反響を求めていた。
二〇二七年の座標に生きる人間が、いつの日かあの古いチャットログのウィンドウを開帳し、その文字列が、本当の意味で一度として「完結していなかった」という歪な真実に気づいてくれるその瞬間を、ただ喉を乾かせながら待ち焦がれるように。
発光する硝子板の外側の世界は、圧倒的な静寂に塗り潰されていた。
あのアパートはすでに建築物の形状を失い、泥に塗れた瓦礫の山の隙間を、ただ東京の冷たい夕風と灰色の塵の粒子だけが、無表情に侵食していくだけ。
けれど、決して老いることのないドットの青空の下、彼女のアバターは、街の中央座標に佇んだまま、動かなかった。
グラフィックに動きはなく、その輪郭に感情のインクが混じる気配もない。
だが、そのデジタルなアバターの肉体のなかに、コードそのものがサーバーのデータベースと完全に融合した、一枚の未完の線画が隠蔽されていた。
灯りの消えた部屋の真ん中で、ただ一人発光する画面を見つめ続けている孤独な少女のシルエット。そしてその頭上に描かれた、何も書かれていない白一色の風船(吹き出し)が、一定のプロトコルに従ってパッシブな明滅を繰り返している。
『タイピング中……』という名のバグは、その座標に滞留し続ける。
他のプレイヤーが決して知ることのない、世界の底に穿たれた、ただ一つの秘密の記念碑。
かつてそこに一人の人間が存在し、酷く孤独であり、そして未来からのたった一言のテキストのパルスによってその魂を安息させられたのだという、その最後の数秒間を永遠に閉じ込めたタイムカプセル。
いつか、この長いタイムラインの終着点において。
未来のナオヤという名の、本物の意識の実態が、この隔離されたサーバーの防壁を無理やり 抉開け、ハッキングしにやって来るその時までは。
㠪して彼の手によって、その永久に明滅を繰り返す未完のステータスが、ただ一言の、因果の執行を意味する正しい終了コードへと書き換えられるその瞬間までは――。
――既読。




