第35章 タイピングの秒針
〇〇時十五分。
セカンドモニターの隅で、デジタルの数字がパッシブ(受動的)な明滅を繰り返していた。サーバーの主時計は厳然として二〇二五年という過去の座標に自閉している。けれど、木の天板の上のスマートフォンが示すのは、二〇二六年という致命的な執行日の時間軸。二つの時間の溝は、暗室のなかで深く、冷たく横たわっていた。
――チリーン。
フレンドリストの最上段が、鮮やかな緑色に反転した。
――Naoya - Online
今度は、アバターが空間を穿ってスポーンするための青い光源エフェクトすら随伴していなかった。彼のアカウントは、コンマ数ミリ秒の遅延すら経ず、唐突に私のグラフィックの隣の座標へと出現した。
二つのデータの距離は、一ピクセルすら存在しないほどに肉薄している。
レイはキーボードの上に、冷え切った指先を這わせた。
チャットのカラムを開き、液晶の底で静かに待機する特定の四文字を見つめる。暗いフードの裾が、システムに規定された緩慢なモーションに従って僅かに揺れていた。
伝えたい言語の関数は、胸の真ん中に肥大化していた。狂ってしまった暦の数字、システムが吐き出し続けるエラーログ、環境の崩壊、そして――この灯りの消えた部屋を浸食しつつある、説明のつかない根源的な恐怖のすべてを。
『レイ』
画面の底から、短いパルスが落ちてきた。
俺は、いや私は思考のフィルターを通さないまま、キーボードのスイッチを叩き始めた。
液晶の底で、一本の白いカーソルが、私の心臓の不協和音と同期するようにして高速で点滅を繰り返す。
『私は……』
文字を打ち込み、すぐにバックスペースで消去する。
『こっちのシステムがバグってて……』
また、消す。
二〇二七年の地平にいるストレンジャーに向かって、自分が彼らにとっての過去の頁に囚われている事実を、一体どのようなボキャブラリーで説明すればいいというのか。現実のカレンダーが、まだ二〇二六年にしか辿り着いていないのだと告げたところで、電子の網の向こう側の理性が、それを正しいデータとして受け入れるはずもなかった。
未来の彼のモニターの上では、私の名前の下に『タイピング中……』の三点リーダーが、思わせぶりに明滅を繰り返しているはずだった。古いオンラインゲームの仕様は、指先がキーボードに触れている時間を、寸分の狂いもなく相手の画面へと出力し続けるからだ。
だから、私は指先を動かし続けた。崩壊していく文脈のなかから、未来の領域へ届くべき最後の、剥き出しの文字列を削り出そうと、壊れた機械のような手つきで。
――ジ、ジジッ。
唐突に、四畳半の隅に放置されていた小型テレビから、回路の焼き切れるような絶叫が弾けた。
天井の主照明の灯体が、見たこともない大きな軌道を描いて、不自然に揺れ始める。厚手のカーテンの隙間から床の木目に穿ち込まれていた一本の白い走査線が、激しく左右へとブレを奔らせた。
スタイラスを握る指先が、硝子面の上でピタリと止まる。
「震災……?」
細い呟きは、誰の耳にも届かない。
東京の地平において、微小な地殻の震えなどありふれた日常の一部に過ぎなかった。
けれど、今夜の波形は決定的に違っていた。
建物の底、コンクリートの根音から、地鳴りのような重低音の咆哮が侵食し、せり上がってくる。家賃の安い古い木造アパートの骨組みが、過酷な重量に圧迫されて、ミシミシと悲鳴のような軋みを立て始めた。
視線を右側のセカンドスクリーンへと捩じ戻す。
チャットのログカラムに、新しい文字列が滑り込んできた。その白い風船は、ドット of 形状を激しくモザイク状に崩しながら、液晶の真ん中に不法投棄された。
『怖がらないで』
呼吸が、完全に停止した。まぶたを 抉開けるようにして、その五文字のインクを凝視する。
『怖がらないで』
彼は知っているのだ。二〇二七年の地平にいるナオヤは、未来の記録の底で、今、私の生きるこのリアルにおいて、破綻の歯車が回転を始めた事実をあらかじめ見届けているのだ。彼が未来の網の底で見つけてしまったあの死亡の記録、震災のニュースの残片。――それは、今まさに私の肉体が直面しようとしている、この現実そのものの顛末だった。
二の矢となる本震が、破壊的な質量を伴って四畳半の空間を直撃した。
ドンっ、と凄まじい衝撃。
机の左側に積み重なっていたネームの原稿用紙の山が、音を立てて崩壊し、傾き始めた床の上へと乱雑に散らばっていく。マグカップの底で冷え切っていた安物の珈琲が濁流となって零れ落ち、液晶タブレットの硝子面を濡らし、配線の隙間へと容赦なく浸食していった。
レイは両の掌を、激しく振動を奔らせる作業机の端へと力任せに押し当て、指先が白くなるほどの圧力で筐体に縋りついた。
目の前の古いコンピュータは、悲鳴のような駆動音を立てて激しく震えていた。冷却ファンが狂ったようにローリングの絶叫を上げ、直後、背面の排気口から、回路の焼き切れる焦げ臭い煙の残痕が室内に立ち込める。
液晶が壊れたパターンを刻んで激しく明滅するウィンドウのなかで、ナオヤのIDの横にあるインジケーターだけは、厳然として鮮やかな緑色の光を灯し続けていた。
彼は逃げなかった。世界の時間軸が木端微塵に崩壊していく境界線の真ん中で、彼はただ、こちらのパルスが出力されるのを待ち焦がれていた。
強張る右手を、激しく波打つキーボードの上へと無理やり捩じ戻す。
キーを叩かなければならない。この最後の文字列を送信しなければ、彼の画面の底にある『タイピング中……』の三点リーダーが、未完のまま、永遠に宇宙に漂うゴミになってしまう。
崩落していくアパートの破片が周囲の空間を破壊していく狂騒のなかで、私の指先は、光回線のなかにその生データを叩き込むために、アルファベットの配列を必死に 穿ち続けた。
「M」
「A」
「K」
「A」
「S」
「I」
「H」
――バリバリバリっ!
四畳半の右隅のコンクリート壁が致命的な亀裂を走らせ、白々しいモルタルの破片が、黒いキーボードの上に容赦なく降り注ぐ。窓の外から響く轟音は、古い建造物の崩壊の音波と混じり合い、鼓膜を抉るような爆発音となって暗室を満たした。
指先が、その七文字のパルスを電子の海の底へと解放するための、エンターキーの関数へと届こうとした、その刹那。
東京のこのブロックにおける、すべての電力の供給プロトコルが完全に遮断された。
メインモニターの輝きが掻き消え、セカンドスクリーンのバックライトが死に、自室のすべてが、完全な虚無の暗闇のなかへと収束していった。音はなく、光は失われた。
送信されるはずだったデータパッケージの波形は、アスキーコードに変換される手前の不完全なタイムラインで完全に破砕され、私の『タイピング中……』という未完のステータスだけを、中央サーバーのデータベースの底に、永遠のバグとして繋ぎ止めたまま――。




