第37章 システム障害報告書
[LOG ENTRY: CLOUD_SERVER_NODE_2027_RECOVERY]
[STATUS: CRITICAL WARNING]
[REASON: COLD DATA CORRUPTION IN SECTOR 14-M]
メインモニターの液晶が、過酷な速度で垂直にせり上がる無機質な生コード(ソースコード)の残像を白々しく反射していた。
毒々しい原色の緑のインクが暗室のなかで膨張し、澱んだ空気の気圧を奇妙に反転させていく。
リアル(現実)の世界のタイムラインは、すでに二〇二七年、六月。
あの地方住宅街の境界線、泥塗れの瓦礫の山を前にして世界の数式を腑に落としたあの日から、一ヶ月という名の引き延ばされた時間が消費されていた。けれど、俺の内の輪郭は、未だに自分の時間軸へ完全には浮上しきれてはいなかった。
使い古された作業机の上には、サーバーの緯度と経度、無数の座標の数字を書き殴った三冊の手帳が不法投棄されている。
俺はもう、公式のクライアントプログラムを起動することはしなかった。そんな仕様通りの緩慢なプロトコルでは、あの電子の海の底に置き去りにされた「ナニカ」の足跡を暴き出すことなど、到底不可能だと知っていたからだ。
代わりに画面を占拠しているのは、パケット解析のサードパーティ製ツール。
この一年間、俺の古い端末のメモリの死角に蓄積され続けていたキャッシュデータの残渣を、強制的に 抉開け、ハッキングするための暗号化関数。
カタ、カタ。
キーボードを叩く指先のテンポは緩やかだったが、そこには迷いの遅延は一ミリ秒すら含まれてはいなかった。
あの最後の夜、光回線の底を奔っていたすべての通信ログの歴史を、一行ずつ、執念深い手つきでスクロールさせていく。
網膜のピントが、かつての俺が理線の死角で見落としていた、ひとつの致命的なエラーコードの境界線でピタリと停止した。
`[00:17:42] INBOUND_STREAM_TERMINATED_BY_PEER_RESET`
`[00:17:42] PENDING_BUFFER: 0x4D_0x61_0x6B_0x61_0x73_0x69_0x68 (7 BYTES UNCOMMITTED)`
呼吸が、完全に停止した。
自室のなかの寒気が、剥き出しの質量となって胸の真ん中を冷たく 抉るような、過酷な静寂。
括弧のなかに隔離されていた、無機質な十六進数の羅列。
その七バイトの関数の波形を、標準アスキーコードの仕様へと変換したとき、導き出される解は、あまりにも明白だった。
――M・A・K・A・S・I・H
「お前……本当に、これを言いかけてたんだな。すべてが止まっちゃう、前に」
掠れた呟きは、限界を超えた負荷に悲鳴を上げ続ける冷却ファンのローリング音にかき消されて、誰の耳にも届かない。
側頭部から零れ落ちた冷たい脂汗の雫が、木の天板の上の灰色の塵の粒子を僅かに濡らしていった。
そのデータが俺の画面に出力されることはなかった。正確に一年前のあのタイムライン、橘レイの指先がエンターキーの関数を叩き、パルスを光回線へと解放するよりも早く、彼女のリアル(現実)の領域が完全な停電によって電力の供給プロトコルを失ったからだ。
中央サーバーのシステムは、彼女の時間軸で発生した震災の強大な電磁波の爪痕によってバグを起こし、その送信途中の不完全なファイルを、ネットワークのトランジットメモリの底へ不発弾のように凍結してしまった。
だからこそ、俺の画面の下で、彼女の名前の横にあるステータスランプは、不気味な未完の記号を出力し続けなければならなかったのだ。
あの『タイピング中……』の三点リーダーの明滅は、俺のコンピュータが見せた局所的なビジュアルバグ(幻覚)などではなかった。
それは、メモリエリア『Node 2026』の深淵の底に、永久に繋ぎ止められてしまった、彼女の指先の搏動の残響そのものだった。
椅子の背もたれに深く身体を沈め、直哉は染みのついた天井を見上げた。
窓の向こうのリアルからは、梅雨の始まりを告げる東京の重い雨の音が、一定の平坦な旋律を伴って暗室に漏れ聞こえていた。けれど、俺の胸の奥で回転を始めた焦燥感の歯車を、融解してくれる関数はどこにもいやしない。
ブラウザのウィンドウをアクティブにし、ゲーム運営の公式アナウンスの頁へと指先を這わせた。黒一色で塗り潰された背景の真ん中に、冷徹な終了コード(エンドマーク)が浮かび上がっている。
『重要なお知らせ:ネットワークインフラの完全移行、および旧サーバー(レガシーノード)の完全シャ閉鎖に関する運行表について。執行まで、残り七日』
記述されていたのは、一年前の震災によって破綻したまま放置されていた旧システム内のすべての蓄積データを、エントロピーの最適化のために永久に消去するという仕様。
そこには、あの『Node 2026』の座標も含まれていた。
一人の少女の、ちぎれたデジタルな魂の断片が、無言のまま宙吊りにされている、あの奈落の底。
直哉は、椅子の背もたれから上体を真っ直ぐに起こした。
木の天板の端を、指先が白くなるほどの圧力で強く握り締める。
二人の世界の間に横たわる時間の裂け目は、あと一週間で、新システムの分厚い防火壁によって強制的に 穿たれ、完全に閉ざされようとしている。もしこのまま何のアクションも起こさずにサーバーの再起動を許してしまえば、彼女の残していったあの永久のタイポは、完全な空欄へと書き換えられてしまう。
彼女は本当の意味で、電子の海の底から消去され、名もなきバグの死体として、自分の投げかけた言葉が未来の誰かに届いた事実すら知らないまま、暗闇のなかで永遠に隔離されてしまう。
「そんなこと、絶対にさせるかよ」
囁き声は、灯りの消えた部屋のなかに、静かに凪いで消えた。
カーソルを滑らせ、黒一色のコマンドプロンプト(ターミナルコンソール)のウィンドウを開帳する。
現実の世界の時間を巻き戻して、崩落していくコンクリートの質量から橘レイという生身の肉体を救い出す関数など、この世界の方程式には用意されていない。あの死亡のリストに刻まれた絶対律は、すでに確定してしまった世界の破綻なのだから。
けれど――電子の壁の向こう側、サーバー時間のエントロピー暗号をハッキングすることだけは、今の俺の指先にも許されているはずだ。
移行の歯車が回り切る前に、俺は『Node 2026』のトランジットメモリの底へと潜入し、あの宙吊りになった七バイトの波形を強制的にハンドシェイク(受信)させ、その永久に明滅を繰り返すステータスを、ただ一つの正しい終了コードへと書き換える。
――既読。
一年前の過去の座標で、人生の最後の数秒間に直面していた彼女の魂に、伝えたかった。
未来の地平には、お前の声を、喉を乾かせながら聴き届けた人間が確かに実在しているのだと。
直哉は、中央サーバーの防壁を無理やり 抉開け、ハッキングを執行するための最初の一行をタイピングし始めた。
エンターキーを、強く叩く。




