第28章 論理の分岐点
スタイラスを握る右手が、いつもより二倍も重く感じられた。
メインモニターの暗転した領域に、イラストソフトのインターフェースが白々しく浮かび上がっている。そこに反射している自分の顔は、ひどく 蒼ざめていた。まぶたの下の、どす黒い隈の輪郭が、ここ数日の過酷な消耗を冷酷に証明している。
視線を、スマートフォンの液晶へと移動させる。
時間は〇二時四十分。深夜という領域をとうに通り過ぎ、朝の気配がすぐそこに迫っていた。斎藤からの進捗パルスには、未だに一行のインクも返していない。原稿の進行は二十三ページの境界線で完全に凍りつき、私の意識の回路は木端微塵に砕け散っていた。
どうして、まともな精神を保ってキャンバスに向き合うことなどできるだろう。右側のセカンドスクリーンは、依然として世界の数式を逸脱したアノマリー(違和感)を放ち続けているというのに。
未来からの、パルス。私の生きる時間軸の、正確に一年先の座標。
健全な理性はその関数を頑なに拒絶する。けれど、液晶の底が出力した無機質なシステムログのデータだけは、絶対に嘘を吐かない。
椅子の位置をずらし、セカンドスクリーンの机へと身体を近づけた。
ナオヤのアバターは、変わらずそこに佇んでいた。こちらが操作を放棄して静止している間も、ただ忠実に、私のグラフィックの隣にデータの位相を並べている。
チャットログを展開し、今夜交わされたプロトコルのすべてを最初の一行から値踏みするように見つめ直した。
『絵』『似たようなもの』
もし、彼が二〇二七年の地平に立っているのだとしたら、彼にとってこの他愛のない対話の歴史は、すべて「過去の記憶」のゴミに過ぎないということになる。
あるいは――古いデータベースのエラーが引き起こした、ただの自動再生の残像か。
いや、違う。これが単なる死んだデータのプログラムなのだとしたら、こちらの投げかけた符牒に対して、ミリ秒刻みのラグを挟みながらもリアルタイムに応答を出力できるはずがない。俺たちは、いや私たちは、確かに東京の地下を奔る光ファイバーの網を潜ってハンドシェイクを交わしている。ただ、彼から送信されるパケットの波形だけが、十二ヶ月という時間の深淵を飛び越えて、この四畳半の端末に不法投棄されているのだ。
深く、冷たい息を吸い込み、レイは指先の震えを無理やり捩じ伏せた。
新しい文字列をタイピングする。今度の関数は、彼の時間軸において、彼がどれほど「現在の私」の輪郭を記憶しているのかをテストするためのものだった。
『発表したことは?』
エンターキーを叩く。
足元のモデムのインジケーターにピントを合わせる。あの極限の赤色の点滅が再び灯り、回路の焼き切れるような微小な電子音が深夜の暗室に響いた。その不協和音が、今はどうしてだか、俺の耳にひどく馴染み深いものとして聴こえていた。
五秒。十秒。二十秒。
㠪の引き延ばされた静寂の質量が、暗闇のなかで過酷な重量となってのしかかってくる。
『まだない』
落ちてきたのは、短く、直截な三文字。
俺は、いや私は喉を乾かせながらそのインクを腑に落とした。その通りだ。私の個人クリエイターとしての原稿は、まだどこの商業誌にも正式にデリート(掲載)されてはいない。ポートフォリオの片隅で、ただ底なしの退屈と闘い続けている、名もなきアマチュアに過ぎない。
返答を打ち込もうとした、その刹那。
こちらの操作を追い越すように、ナオヤのアカウントから自動出力された文字列が、タイムラインの最下部へ滑り込んできた。
『きっと、いい絵なんだろうな』
発光する硝子板の前で、完全に凍りついた。
きっと、いい絵なんだろうな――。
㠪の七文字に込められた、説明のつかない奇妙な確信の温度。それはまるで、彼はすでに、私が今夜どれほど足掻いても完成させられずにいるその原稿の「最終的な結末」を、すべて見届けてしまっているかのような響きを持っていた。
底冷えする恐怖の真ん中で、どうしてだろう、微小な、熱い情念の残渣が胸の奥にぽつりと灯った。
現実の世界では、誰一人として、俺にそんな言葉を投げかけてはくれなかった。
斎藤はただ、市場の数値に見合った速度と正確さだけを要求し、プラットフォームの管理システムは、閲覧数とクリック率という名の冷たい記号だけで私の実態を値踏みする。
なのに、この画面の向こう側の、一年先の未来から不穏なパルスを送りつけてくる見知らぬストレンジャーだけが、私のインクの価値を無条件に肯定している。
『そうでもないよ』
理性のフィルターを通さず、拒絶の符牒を送信した。謙遜しているわけではない。私はいつだって、自分の紡ぎ出す線の不完全さを、誰よりも呪っていたからだ。
ゲームのチャットウィンドウを閉じ、視線をメインモニターの液晶タブレットへと捩じ戻す。
㠪のナオヤの残していった文字列が、脳細胞の最も鋭利な死角に、消えない澱のようにへばりついて離れなかった。
スタイラスを握り直し、白一色の空欄のコマを見つめる。
ゆっくりと、右腕を滑らせた。今度の描線の軌道は、先ほどよりも僅かに軽やかだった。
キャンバスのなかの、主人公の少女の表情に、より生々しいディテールを削り出していく。灯りの消えた部屋の真ん中で、ただ一人、発光するコンピュータの壁を見つめ続けている孤独なシルエット。
㠪の、今の私自身の姿を、そのまま鏡のように反転させたかのように。
右側のモニターの箱庭は、起動したままの位相を維持させておいた。
サーバーの時刻同期が二〇二五年を示していようが、二〇二七年を示していようが、もうどうでもよかった。
ネットワークのエラーによって、彼の言語の波形がどれほど順序を失って断片化されようとも、関係はない。
今夜、東京の境界線で完全に隔離されたこの四畳半の暗闇のなかで、ナオヤという記号が送りつけてくる歪んだテキストの存在だけが、数時間後に私を追いつめるであろう外側の世界のすべての運行表よりも、遥かに確かな生気を持って、そこに実在していた。




