第27章 暗号試行
柱時計が刻む秒針の音が、いつの間にか脳髄の奥で重低音の搏動へと変質していた。
カチ、コチ、カチ、コチ。
灰色の無機質なシステムログには、網膜を焼きにくる明瞭な文字列が刻まれたままだ。
――System: Data packet from [Naoya] received with timestamp mismatch (+31,536,000 seconds).
㠪年、先の座標。
液晶の壁を潜ってこちら側の端末に穿ち込まれるパケットは、俺の、いや私の生きるカレンダーを遥かに追い越し、遥か未来の地平から送信されている。
二〇二七年、五月。
「狂ってる……本当に、どうかしてる」
橘レイは両の側頭部を指先で強く圧迫し、狂ったように回転を続ける思考の歯車を捩じ伏せようと試みた。
㠪るはずのない数式の破綻。理性の擁護を求めて、メインモニターのブラウザへと呪われたように指を滑らせる。検索窓に流し込んだのは、ネットワークデータベースにおける、時刻同期のエラーに関する専門用語のインク。
画面に出力されたいくつかの技術文書は、基幹サーバーのマザーボードに搭載されたクロックジェネレーターの物理的な破損、あるいはデータセンターのオペレーターによるタイムゾーンの設定ミスという実態を提示していた。
そう、設定のバグだ。それだけが、今の私の薄い理性が受け入れられる唯一の関数だった。管理運営のエンジニアが、昨日の定期メンテナンスの際、誤ってシステム内部の主時計を一年分進めてしまったに違いない。
けれど、もしそれが自動化されたシステムの一時的なエラーに過ぎないのだとしたら、何故、ナオヤの紡ぐ文字列の温度はあんなにも歪んでいるのか。
何故、彼の投げかけてくる一つひとつの符牒は、まるで遠い過去の記憶のゴミを盲目に手探りしているかのように響くのか。
セカンドウィンドウをアクティブにし、電子の箱庭へと意識の位相を切り替える。
画面の向こう、ナオヤのアバターはすでに武器のグラフィックを収めていた。彼はただ静止している。酷く静かに。世界の仕様を無視した、気味の悪いほどの静謐。
冷たい脂汗に濡れた掌を、黒いキーボードの上へと滑らせる。
数字の警告を睨みつけるのはもうやめだ。俺は、いや私は、アバターの皮を被ったその意識の実態に対して、直接の関数を投入して確かめることを決意していた。
『いつも何時くらいに繋いでるの?』
エンターキーを叩く。パルスが送信された。
インジケーターの数値は「45ms」の緑色を維持している。アパートの光回線に、局所的な遅延の気配はどこにもない。
㠪して、重苦しい余白がタイムラインを支配した。
一秒。三秒。五秒。
ナオヤからの応答は、すぐには出力されなかった。サーバーのプロトコルが、彼の言語の波形を一時的に真空の領域へ繋ぎ止め、それからこちらの端末へと不法投棄するかのような、引き延ばされた時間。
『不定期』
落ちてきたのは、短く、平坦な三文字。
躊躇の隙間を与えることなく、俺はすぐに次の質問をタイピングした。
『仕事?』
まばたきをすることすら忘れて画面を凝視する。セカンドモニターが唐突に一度だけ明滅し、走査線のような極細のノイズが視界を水平に横切った。
チャットのカラムに、一つの肯定が弾ける。
『うん』
冷たい息を吸い込み、心臓の鼓動のテンポが、さらに不規則に速度を上げていく。
ここからが、世界の数式を決定づけるための鍵となる関数だった。サーバーのバグごときが模造できるはずもない、現実の剥き出しのディテールを暴き出すための問い。
『どんな仕事?』
エンターキーを叩き、パルスを流し込んだ。
今度の静寂の質量は、これまでのどんな遅延よりも遥かに過酷で、息苦しかった。
四畳半の暗室を満たすのは、ただ朝から酷使され続けている筐体のファンが放つ、単調な排気音だけ。それはレイの内の焦燥感を冷たく煽り、鼓膜の裏側を引っ掻き続ける。
入力欄の左隅で無機質に明滅を繰り返す、一本の白いカーソル。
ただ、待った。
二分近くの時間が、沈黙の底へ沈殿していった。アバターの輪郭から一切の生気が掻き消え、データのタイムアウトによって接続が切断されたのではないか、そう絶望しかけた、その刹那。
液晶の底から、新しい文字列が唐突に吐き出された。
『絵』
橘レイの身体が、作業椅子の上で激しく強張った。
絵――?
まぶたを 抉開けるようにして、その一文字の形状を睨みつける。
何故、そのインクが出力される。
㠪は今、自分がスタイラスを握り締め、発光する硝子面の前でネームの原稿用紙と格闘している生活の実態を、あらかじめ見通しているとでも言うのか。どうして液晶の壁の向こう側の見知らぬ他人が、古いオンラインゲームのプロトコルを潜って、こちらのリアルの座標をこれほど正確に言い当てることができるのか。
黒いキーボードを叩く指先が、目に見えて細かく震え始めていた。
『イラストとか?』
送信ボタンを叩く。
㠪し、ナオヤからの次の波形は、やはり順序を失ってタイムラインを飛び越え、こちらの未完の文脈を切り裂くようにして出現した。
『似たようなもの』
レイは両手をキーボードから引き剥がし、そのまま机の下へと力なく落とした。
ナオヤというIDの背後にいるナニカが、未来の過剰なデータの山から、現在の自分を監視しているのではないかという予感が、急激な生々しさを持って室内に立ち上がってくる。
㠪はホラーの怪異でもなければ、オカルトの超自然現象でもない。
ただ、壊れたサーバーの、時間軸の裂け目を飛び越えてこちら側に届いてしまう、冷たい電脳空間の暗号化パルス。
その事実の持つ底冷えするような恐怖だけが、灯りの消えた部屋のなかに、いつまでも重く漂い続けていた。




