第26章 狂った数字
キーボードに添えられていた両手を、弾かれたように引き剥がした。
喉の奥で呼気が不自然に 凍りつき、呼吸のプロトコルが一時的に遮断される。
視線は、液晶の右下隅に表示された極小のシステムログに釘付けにされたまま、微動だにしない。
――Server Time Sync: May 14, 2025 - 01:14:22
「そんなわけ、ない……」
細い呟きと共に、レイは暗闇の前で小さく首を横に振った。
一度、強く目をつむる。理線の関数を起動させ、心の中で三つ数えてから、再びまぶたを 抉開けた。
数字の形状は変わらない。二〇二五年。
だが、自室の壁に不法投棄されたカレンダーも、スマートフォンの液晶も、先ほど届いた斎藤からの進捗パルスも、すべては明白に「二〇二六年」という頁を示している。どうして世界中のプレイヤーが同期しているはずのオンライン空間で、 暦のシステムだけがこれほど致命的なタイポ(誤入力)を起こすというのか。
マウスを滑らせ、メインモニターのブラウザをアクティブにする。
新しいタブを開き、ゲームの公式コミュニティフォーラムのアドレスを流し込んだ。サーバーの仕様変更に伴うバグが発生した場合、住人たちが真っ先に苦情のインクをぶちまけるゴミ溜め。
過疎化したページが、引き延ばされた遅延を経て展開される。
レイは指先を震わせながら、スレッドのヘッドラインを高速でスクロールしていった。 日付のエラーを訴える書き込みを捜し求めて。
『今夜のサーバー、重くない?』――違う。
『初心者おすすめビルド』――それじゃない。
『週次イベントが反映されない件』――そんな瑣末なことではない。
サーバーの時間軸が過去へ逆流しているという不協和音は、何処にも出力されていなかった。他のプレイヤーたちのタイムスタンプは、どれも正常に「二〇二六年五月」を刻んでいる。
浅い息を吐き出し、俺は、いや私は、最も安全な理性の数式を組み立てて現実を擁護しようと試みた。
これは、私のコンピュータ内部だけで発生している局所的な描画バグ(ビジュアルバグ)に過ぎないのだ、と。原稿のアップロードが致命的な破綻を起こした際、ゲームのインストールフォルダ内にあるレジストリが、一時的なバグを起こしたに違いない。古いパーツを酷使し、過剰な負荷のアプリケーションを同時に回し続ければ、この手の精密機械はよく仕様を無視した挙動を起こす。
そう、ただの勘違いだ。
セカンドスクリーンのゲームウィンドウをクリックし、世界へと視線を戻す。
画面の隅のインジケーターは「45ms」まで数値を降下させ、鮮やかな緑色で安定を維持していた。回線の帯域は正常。プロトコルは復帰している。
㠪の瞬間、眼前のナオヤのアバターが、息を吹き返したように滑らかに動き始めた。
先ほどまでの歪なコマ送りは消え去っている。彼はインベントリを開いて武器の装備グラフィックを切り替え、それから、こちらのキャラクターの方へと視線の座標を巡らせてきた。
――Chime.
チャットログの最下部に、新しい文字列が滑り込んできた。
『いーよ』
㠪の二文字は、数分前に彼が出力した『すまん』の直下に、整然と並んでいた。
胸の真ん中の重圧が、僅かに弛緩していく。
対話の順序は正常なレールへと捩じ戻されていた。彼はただ、こちらの『遅い』という符牒に対して、少し長いラグを挟んで応答しただけなのだ。先ほどの時間軸の跳躍は、限界を迎えていた光回線が見せた、一瞬の幻覚に過ぎない。
黒いキーボードの上に再び指先を走らせる。完全に世界を閉じて睡眠の関数に入る前に、回線の帯域を値踏みするための、いつものルーティン。
『いつものダンジョンでいい?』
エンターキーを叩き、アバターの頭上に白い風船を展開させる。ナオヤが街の転送門へと歩調を進めるのを待った。
㠪し、そこから出力された彼の次の台詞は、先ほど組み立てたばかりの理性の数式を、再び木端微塵に破壊していった。
『今日は長く繋がってるね』
不自然に眉をひそめる。
長く繋がってる――?
俺が、いや私がこの箱庭を開いたのは、斎藤からのパルスを待つ間の、わずか一時間前のタイムラインに過ぎない。日中は 徹夜の疲弊を消化するために、死んだように毛布に潜り込んでいたはずだ。ゲームのプログラムは完全にシャットダウンされていた。
何故、彼は私が「ずっと前からここにいる」前提の関数を投げかけてくるのか。
混濁していく記憶の隙間を埋めるように、タイピングの速度を緩めていく。
『今日だけ』
パルスを送信した刹那、ミリ秒のラグすら経ず、ナオヤからの文字列が弾けた。
『なんで?』
㠪の発光する硝子板を、数秒間、ただじっと凝視し続けた。
深夜の暗室に、過酷な沈黙が横たわる。
言葉のインクが見つからない。現実の世界で締め切りという名の冷たい刃に追いつめられ、生活の関数そのものが崩壊しかけている身の上など、画面の向こう側のストレンジャーに曝露できるはずもなかった。彼はただのゲームのデータだ。液晶の壁の向こうの、名前も知らない他人。
俺たちは、そこまで深いプライベートを共有するためのプロトコルは持ち合わせていない。
だから、私は最も安全な、他人の介入を拒絶するためのいつもの符牒を選んだ。
『べつに』
エンターキーを叩いた瞬間、スピーカーの回路から、ジ、という短いスタティックなノイズが弾けた。
ゲームの描画はフリーズしなかった。
㠪、チャットログの最下部、俺の打った『べつに』という文字の直下に、システムが自動出力した灰色の無機質な文字列が滑り込んできた。
――System: Data packet from [Naoya] received with timestamp mismatch (+31,536,000 seconds).
――Warning: System is forcing stream alignment.
指先が、完全に凍りついた。
液晶の放つ淡い青光のなかで、感覚が冷たく痺れていく。
三一、五三六、〇〇〇秒。
その数字が持つ真実の質量を計算するために、高位の数学など必要なかった。その秒数の関数を「日」という単位に変換したとき、導き出される解は、あまりにも明白だった。
三百六十五日。
正確に、一年。




