第25章 遅れていくアップロード
カチ、カチ。
マウスを滑らせ、イラストソフトの左上隅にあるメニューを選択する。
今日一日の、疲弊した脳細胞の残滓を『draft_ch3_rough.psd』という無機質なファイル名に変換して保存した。暗い室内の光源エフェクトを執拗なまでにレイヤー分割して重ねたせいで、データの質量は不自然なほどに肥大化していた。
メインモニターのブラウザをアクティブにする。
灰色の、骨組みだけの硬質なデザインで構築された個人クリエイター用のダッシュボード。液晶の真ん中にある「アップロードステータス」のカラムは、依然として白一色の空欄のまま、仕様通りの一言を点滅させていた。――選択されたファイルはありません。
参照ボタンを叩き、保存したばかりの粗い原稿データをインプットする。
液晶の真ん中で、読み込みを示すドットのサークルが緩慢な回転を始めた。一パーセント……二パーセント……。
進行の歩調は、泥のなかを穿つように遅かった。いつもより遥かに重い、光ファイバーの躊躇。
東京の境界線、家賃の安い古いアパートに引かれた細い回線が、まともなスペックを維持していた試しは一度もない。だが今夜のタイムラインは、まるで底なしの沼に足元を吸い込まれているかのように、一マイル進むのにも過酷な遅延を要求してくる。
㠪はスマートフォンの暗転した硝子面を見つめ、それから意識の死角へと追いやった。今頃、編集の斎藤は千代田区のオフィスでモニターを睨みつけ、こちらのシステムからパルスが届くのを喉を乾かせながら待っているはずだ。逃れられない焦燥感の棘が、再び 胸の真ん中を冷たく抉る。
七パーセントの位置で完全に凍りついたインジケーターから視線を外すため、俺は、いや私はセカンドスクリーンのゲームウィンドウをクリックした。
二つのアバターは、広場の片隅で並んだまま、静止していた。
システムに規定された一定の周期に従って、デジタルな風が彼のキャラクターの暗いフードの裾を揺らす。この電子の箱庭にある風景は、いつだって、こちらを追いつめる現実の運行表に対して完璧なまでに無関心だった。
――Chime.
チャットログの底に、新しい文字列が滑り込んしてきた。
『パーティ、組む?』
橘レイは画面の前で、不自然に眉をひそめた。
㠪の五文字は、世界の時間軸を数ページほど強引に巻き戻したかのような、決定的なズレを孕んでいた。数分前、彼はすでに俺たちが出会った座標について訊ね、こちらが『違う』と返答した関数を受け取っているはずだ。何故、今更初めてハンドシェイクを交わすストレンジャーのような台詞を出力してくるのか。
「システム、本当に壊れてる……」
呟きは、回る換気扇の雑音に吸い込まれて消えた。思考の回路をこれ以上すり減らすのを拒絶するように、キーボードの手前に指先を滑らせる。すでにパーティを組んでいるはずの仕様を無視して、ただ対話のテンポをなぞるためだけの、最も短い符牒を入力した。
『いいよ』
エンターキーを強く叩いた刹那、メインモニターの原稿のアップロードバーが、七パーセントから二十四パーセントへと不自然な跳躍を見せた。
同時に、足元に不法投棄されたモデムの奥から、回路の焼き切れるような微小な電子の軋みが響き、データリンクを示すインジケーターが一瞬だけ極限の赤色を点滅させた。
セカンドスクリーンの箱庭が、コンマ数秒の間、完全に凍りつく。
描画が再開された時、ナオヤのアバターの座標はすでに狂っていた。彼はもう静止していなかった。キャラクターのグラフィックが、順序を失ったコマ送りのように歪に前後へブレを奔らせている。サーバーのメモリのなかで、二つの異なる位置データが排他的に領域を奪い合っているかのような、気味の悪い残像。
やがて、チャットのカラムに新しい一言が落ちてきた。アバターの頭上の白い風船は随伴していない。システムの深層から直接 穿ち込まれた、緊急のパルス。
『すまん』
俺は、その短い文字の形状を睨みつけた。
すまん――何に対しての、謝罪のインクだ。パルスの遅延に対してか、あるいは位置情報を失って崩れかけているそのアバターの機能不全に対してか。
理性の数式が答えを導き出すより早く、メインモニターから短い警告のシステム音が弾けた。
ブラウザの画面。アップロードは三十二パーセントの境界線で致命的な破綻を起こし、ダッシュボードの真ん中に黄色いダイアログボックスが出現していた。
『接続切断:サーバー時間のエントロピー暗号がユーザー端末と同期していません(時間の解離が検出されました)』
レイは、その文字列の意味を信じることができずにフリーズした。
時間の、解離――?
あり得ない。この部屋のコンピュータの内蔵時計が、わずか数キロしか離れていない千代田区の基幹サーバーの数値とズレを起こすなど、プロトコルの数式上、絶対に起こり得ないバグだ。
画面の右下隅、デスクトップのデジタル時計にピントを合わせる。――〇一時十四分。
木の天板の上のスマートフォンを掴み上げ、液晶の記号と照合する。――〇一時十四分。
すべては寸分の狂いもなく一致していた。一分一秒の遅延すら、そこには存在しない。
だが、セカンドスクリーンの片隅。
オンラインゲームのウィンドウの底、マップロゴの直下に表示されていた、微小なシステムログの数字が網膜を叩いた瞬間。
橘レイの全身の皮膚から、生気が一瞬で 掻き消えた。
――Server Time Sync: May 14, 2025 - 01:14:22
指先が、完全に石のように凍りついた。
二〇二五年――。
現実の世界のタイムラインは、とっくに二〇二六年の頁をめくっているはずだ。 [1, 2, 3]
毎晩のように冷たい電子の網を潜って、俺がログインし続けてきたこの箱庭の時間は、どうして、現実のリアルから正確に「一年」という果てしない深淵を残して、過去の座標に取り残されているというのか。




