第24章 現実世界の足音
チリッ、チリッ。
木の天板の上で、再びスマートフォンの筐体が震えた。
今度は引き延ばされた、二度連発の長い振動。レイは、いまだに極限の赤色を点灯させているゲーム画面から、しぶしぶ視線を外した。重い身体を僅かに傾け、その矩形の端末をひっくり返して画面を覗き込む。
届いていたのは、編集の斎藤からのパルスではなかった。電子配信プラットフォームの管理システムが出力した、自動配信の警告。
『件名:月次ポートフォリオ入稿期限の通知(橘レイ 様)』
『本文:今月の個人クリエイター枠における原稿のアップロード期限まで、残り四十二時間です。期日までにデータ入稿が確認できない場合、翌月の公式トップページにおける「おすすめ枠」の掲載ステータスは自動的に剥奪されます』
スマートフォンを、液晶を上にしたまま無造作に放り出す。
放たれた淡い青光が机の隅を白々しく照らし、湿った部屋の空気のせいで端が丸まり始めたネームの原稿用紙を浮かび上がらせた。
現実世界という名のシステムは、一度として俺に、いや私に猶予を与えてはくれない。
それは督促状や家賃の請求書という形をした足音となって、常にこの部屋のドアを叩き、背後から追いすがってくる。もしトップページの推薦枠を失えば、翌月の口座の数値は致命的なまでに激減する。それは、ただでさえ極限まで切り詰めている日々の食費の関数を、さらに削らなければならないことを意味していた。
自分の右の掌を見つめる。
親指の付け根が不自然に赤く 腫れ、スタイラスを過剰な筆圧で握り締め続けたせいで、小さなペン 凧が固くなっていた。肉体は 疲弊し、思考の回路は擦り切れた細い導線のようになっていた。
㠪、この手を動かし続けること以外に、この世界の運行表を生き延びる術を、私は何ひとつ持ち合わせてはいない。
メインモニターへと正面を向き直り、右側のゲームウィンドウを意識の死角へ追いやろうと試みる。
背景用の資料フォルダを展開した。切り取られているのは、どれも人影の絶えた東京の寒々しい景色。深夜の狭い路地、誰もいない歩道橋、輪郭のぼやけた高架橋。
今回の短編で描き出したいのは、その「隔離」の空気そのものだった。
世界の片隅で、自分の実態というデータが、周囲の記憶から少しずつ、緩慢に消去されていく物語。
カタ、カタ、カタ。
第三コマの背景にインクを落とし込んでいく。
古い木造アパートの構造線を、一本ずつ、慎重に水平に引く。デジタルインクの描線は、パースの整合性を保つために極限の集中力を要求してきた。
㠪、硝子面を叩く指先は、右側の発光体が放つ一定の明滅によって、何度も軌道を狂わされた。
チャットログに、新しい白い風船が弾けている。
『あなた、よくここにいるから』
スタイラスの先端が、硝子の上でピタリと止まる。
俺は、いや私は、その過去の時制を指すような不自然な文字列を睨みつけた。今度のナオヤからのパルスは、数分前のような困惑の問いではない。何処か、すでに確定してしまった事実を淡々と告げるかのような、冷たい結論の響き。
『そのビルド、使い込んでるの?』
反射的に、キーボードを叩いていた。数日前、彼の歪なゲームステータスについて交わしたはずの、他愛のない対話の記憶。こちらの回線が正常なプロトコルへと復帰しているのか、それとも未だに盲目のデータを吐き出し続けているのかを、確かめるための関数。
数秒の猶予。
画面の隅のインジケーターが、赤色の「999ms」から黄色い「120ms」へと緩慢に数値を降下させていく。
接続の帯域は安定を取り戻しつつあるように見えた。けれど、そこから出力されたナオヤの応答は、世界の数式をさらに致命的に狂わせていく。
『落ち着くから』
早すぎる。
エンターキーを叩いてから、ミリ秒単位のラグすら経ず、わずか一秒の後にはその四文字が出力されていた。
㠪は、不人気なビルドの理由を訊ねたこちらの問いに対する、あまりに正確な解答だった。なのに、おかしい。その文字列は、彼がこれまでに連投してきた他の未解決の質問よりも――先に、タイムラインの底へ滑り込んできたのだ。
まるで、こちらの台詞の関数をあらかじめ暗記している人間が、原稿の最終ページから最初のページへと向かって、逆向きに言葉を回収しているかのような、歪な同期。
椅子の背もたれに深く身体を預け、キーボードの上で指先を宙吊りにしたまま、動きを止めた。
説明のつかない微小な戦慄が、皮膚の表面を 抉るようにして項へと這い上がってくる。
㠪は単なるサーバー側のパケットエラーなどではない。
この液晶の壁を潜って、俺の端末と彼の端末の間を流れるデータの時間軸そのものが、決定的にバグを起こしている。
チリッ。
スマートフォンのバックライトが再び明滅した。今度は、生身の人間からのパルス。
[編集・斎藤]
『橘さん、さっきポートフォリオのシステムを確認しましたが、まだネームのデータが一件も入っていません。明日の朝のマーケティング会議にかけるため、最初の数ページのプリビューだけでも今夜中に必ず送信してください』
レイはスマートフォンの画面を見つめ、それから、人影の絶えたドットの街に並んで佇む二つのアバターへと視線を移した。
全く異なる二つのタイムラインが、彼女の薄い精神の輪郭を、両方向から過酷な重量で圧迫していた。
目に見える成果をインクの速さで要求してくる現実の世界。そして、目に見えない歪みを伴って未知の暗号を送りつけてくる電子の海の底。
深く、冷たい息を吸い込み、レイはまぶたを閉じた。耳の奥で、頭痛の波形が小さく拍動を始めている。
「今夜は、すごく長い夜になりそうだな……」
細い呟きは、灯りの消えた部屋の暗闇のなかに、しんと沈んで消えていった。




