第23章 断片化された言葉
スピーカーが放った歪な軋みは、ほんの一瞬の出来事だった。
けれど、その残響が残していった居心地の悪い情念は、泥のように胸の底へ溜まって消えない。中央広場のBGMは何事もなかったかのように平坦な旋律を再開させていたが、耳に馴染みすぎたそのメロディが、今はどうしてだか酷く見知らぬ他人のように聴こえた。
画面の向こう、ナオヤのアバターは同じ座標に佇んだまま動かない。キャラクターの輪郭を奔っていた微小な振動はすでに収束していた。なのに、二つのデータの間に横たわる静寂の質は、これまでとは決定的に違っているように思えた。
――Chime.
液晶の最下部に、新しいパルスが弾ける。
『俺たち、どこかで会ったっけ?』
キーボードに添えられていた指先が、完全に凍りついた。橘レイは、まばたきをすることすら忘れて発光する硝子板を凝視した。
どこかで会ったっけ――?
その七文字の形状が、目に見えない剥き出しの質量となって脳髄を 抉る。
左手に顎を預けたまま、俺は、いや私は、今さっき網膜が捉えた記号の意味を必死に咀嚼しようと試みていた。悪い悪ふざけか、それとも彼のアカウントが何者かにハッキングでもされたのか。俺たちはこの電子の箱庭の底で、もう何ヶ月も同じテンポを共有してきたはずだ。現実のプライベートを暴き合うような真似こそしなかったが、中央広場で行き交うだけの完全な赤の他人ではない。
胸の真ん中で、棘を含んだ不快な焦燥感がじりじりと熱を持ち始める。指先が黒いキーボードの上で荒々しく動いた。
『うん』
エンターキーを強く叩き、一文字の残滓を光回線へと流し込む。
ナオヤの反応を待った。もしこれが、退屈な暇潰しのためのつまらない隠れみの(ごっこ)遊びなのだとしたら、今すぐにでも接続を切り、原稿キャンバスへ戻るつもりだった。斎藤さんからの締め切りのパルスは、記憶喪失のストレンジャーに付き合ってやれるほど甘くはない。
けれど、次のタイムラインは一向に更新されなかった。
一分。二分。液晶の左下隅、チャットウィンドウの底は灰色の沈黙に閉ざされたままだ。
細い息を吐き出すと、部屋の澱んだ冷気が、忘れていた現実の感覚を無理やり呼び戻してくる。四畳半の空間は、相変わらず灯りの消えたまま、乱雑なゴミ溜めのように静まり返っていた。机の左側に不法投棄されたネームの山が、こちらの都合などお構いなしに進み続ける時間の絶対律を、冷酷に告げている。
セカンドスクリーンの箱庭から目を逸らし、メインモニターのイラストソフトへ視線を戻した。描きかけの、長い髪の少女のスケッチ。粗い鉛筆の描線はどれも生気を欠いており、その未完の、どこにも焦点を結んでいない瞳の輪郭が、今の自分の実態をそのまま鏡のように反転させているように思えた。
ペンホルダーからスタイラスを引き抜き、無理やり理性の関数を起動させて作業へと没頭しようと試みる。一本ずつ、慎重に線を引く。キャラクターの毛先を修正し、肩にかかる細い束を削り出していく。
カタ、カタ。
デジタルインクが硝子面を叩く音だけが、深夜の暗室に響き渡る。
けれど、意識のすべてをそのキャンバスに埋没させることは、どうしても不可能だった。脳細胞の数パーセントが、どうしても右側の発光体に縛り付けられて離れない。ナオヤの名前の横で、生々しく拍動を続けている、緑色のインク。
何故、あんな言葉を出力したのだろう。
今夜の彼の文体は、何から何まで歪んでいた。言葉の内容だけではない。その記号がタイムラインに出現するプロセスそのものが、通常のプロトコルを逸脱している。
――Error: Packet Delay Inversion Detected.
先ほど一瞬だけ弾けて消えた、赤いシステムエラーの文字列が脳裏を過る。
ネットの網の底で、日々他愛のないリサーチを繰り返す漫画家として、最低限の専門用語の知識は持ち合わせているつもりだった。ディレイは「遅延」。インバージョンは「反転」。
この古いゲームのサーバーが、劣悪なメンテナンスのせいで、致命的なデータ転送のエラーを起こしているのだろうか。確かに、アクティブなプレイヤーの数値は毎月のように激減しており、フォーラムの片隅では、サービス終了(サ終)の不穏な噂話が何度も燻っていた。
だとすれば、今日送信した俺の言葉が、彼の画面には数日後のタイムラインとして届いているのかもしれない。あるいは、彼の過去のパルスが、今になってこちらのウィンドウに不法投棄されたか。
その理性の数式は、酷く論理的で、納得のいくものに思えた。
ひとつの小さなコマの処理を終え、俺は、いや私は再びスタイラスを机に置いた。セカンドウィンドウをアクティブにし、今夜の最後のパルスを流し込んで、そのまま世界を閉じようと思い立つ。
㠪し、指先がキーボードに触れるよりも早く、チャットログが静かに更新された。
『俺たち、どこで会ったっけ?』
再び届いた、同じ位相の躊躇。
アバターの頭上に浮かび上がり、ゆっくりとフェードアウトしていく白い風船を、俺はただじっと見つめ続けた。
「本当に、覚えてないの……? それとも、システムが壊れてる?」
細い呟きは、誰の耳にも届かない。
今度は、プロトコルが正常に機能するかを値踏みするため、意図的に歩調を緩めて、最も短い符牒をタイピングした。
『ここ』
エンターキーを叩く。
今度のナオヤからの応答は、ミリ秒刻みのラグすら経ず、即座に出力された。けれど、そのパルスの並びは、やはり順序を失って跳ねていた。
『ギルド?』
『前のパーティ?』
闇のなかで、宛先を見失った盲目のデータが、必死に周囲の壁を模索しているかのような連投。レイは画面の前で、小さく首を横に振った。俺たちはどこのギルドにも属していない。いつだって、この電子の海の底で二人きりのテンポを刻んできたはずだ。
拒絶の一文字を打ち込む。
『違う』
パルスが送信された刹那、セカンドモニターが激しく一度だけ明滅した。
今度の硬直は、これまでになく長かった。世界の時間軸が、三秒間近く完全に停止する。やがて動き出したウィンドウの左下、ネットワークの応答速度を示すインジケーターが、極限の赤色を点灯させていた。
――999ms.
この四畳半の空間を走る光回線が、目に見えない巨大な潮流に足元をすくい取られ、引きずり込まれようとしている。足元のモデムを確認すると、緑色のランプが、仕様を無視した異常な速度で明滅を繰り返していた。まるで、この家賃の安い狭いアパートの細い回線に、処理能力を超える過剰な情報の濁流が、無理やり 穿ち込まれているかのように.
同時に、ナオヤからの新しい文字列が、液晶の底へ滑り込んできた。
㠪の質量に、俺の胸の真ん中が、底冷えするような息苦しさで 竦み上がる。
『じゃあ、俺のことを見てたってこと?』
書かれていたのは、過去の時制を指す関数だった。
㠪たかも、俺と彼が、もう二度と同じ時間軸には存在していないのだと告げるかのように。
㠪たかも彼は、自分のコンピュータの古いフォルダの底から、偶然見つけてしまった「過去の残滓」を、ただ一人で眺めているかのように――。




