第29章 曖昧になる境界線
東京の白々しい朝の光は、この四畳半の暗室には一度として侵入してはこなかった。
光源を頑なに拒絶する、 炭色の厚手のカーテン。ただ床の古びた木目の上に、一本の細い走査線のような白い隙間を穿ち、その光のなかに浮かび上がった極小の塵の粒子が、無機質に宙を彷徨っているだけだった。
キーボードの手前、左腕を枕にした不自然な姿勢のまま、俺は、いや私は浅い眠りの底から引きずり出された。
肉体は重く、軋むように 疲弊していた。項の筋肉は石のように硬直しており、無理やり 抉開けた網膜の奥に、乾いた痛みの波形が走る。
メインモニターの液晶は、起動したままのイラストソフトのキャンバスを白々しく発光させていた。二十四ページの進行は、いまだ中途の境界線で凍りついたままだ。マウスの傍らに不法投棄されたスマートフォンの死体へと、視線の座標をずらす。
斎藤からの着信、三回。
通知領域の最上部に、既知の催促パルスがへばりついていた。
『橘さん、何故電話に出ないんですか。マーケティング会議の運行表はあと二時間で開始されます。プリビューのデータを今すぐ送信してください』
細い、冷たい息を吐き出しながら、脂汗に濡れた顔を手の甲で乱暴に 拭い去る。
逃れられない焦燥感の澱が、再び胃の腑の底から胸の真ん中へと侵食を始めていた。スマートフォンを掴み上げ、睡眠の残渣に強張る指先で、言い訳の文字列をタイピングしていく。
『すみません、斎藤さん。昨夜、背景の着色プロセスの最中に意識が完全にフリーズしていました。最初の三ページ分のデータを、三十分以内に送信します』
送信のプロトコルを起動する。
㠪して、思考を介さない手癖の動作のまま、視線は右側のセカンドスクリーンへと吸い寄せられていった。
オンラインゲームのクライアントは、まだ起動したままの位相を維持していた。
自身のアバターは、昨日と同じ広場の片隅に佇んでいる。けれど、何かが決定的に違っていた。
フレンドリストの最上段、ナオヤのIDの横にあるインジケーターが、灰色の空欄へと反転していた。
――Naoya - Offline
俺はその五文字を、数秒間、ただじっと睨みつけ続けた。
あの鮮やかな緑色のインクが掻き消えたリストを前に、胸の奥に説明のつかない奇妙な空洞が広がっていく。昨夜交わした、あの時間軸の壊れたプロトコルの記憶のすべてが、脳細胞の酸欠が見せた酷く長い悪夢(絵空事)であったかのような錯覚。過剰なカフェインが神経を侵食して引き起こした、ただの局所的な幻覚。
「……ただの、パケットのエラーだよね」
呟きは室内の暗闇に吸い込まれて消えた。レイは無理やり上体を起こし、理線の関数を起動させようと試みた。
マウスをメインモニターへと滑らせ、原稿のキャンバスを開帳する。来月の推薦枠という名の口座の数値を維持するためには、今この瞬間にすべての感情をシャットダウンしてインクを動かすしかなかった。
カタ、カタ、カタ。
スタイラスの先端が、硝子面を叩く無機質な音。
意識のすべてをデジタルインクの描線へと没頭させる。影の落とし込み、毛先のディテールの削り出し、ネームのカラムの整理。作業の仕様に入っている間だけは、世界の秒針は目眩がするほどの速度で消費されていった。
一時間。二時間。
時計の針が昼の十一時を告げた瞬間、私は斎藤のメールアドレスへ、辛うじて完成させたプリビューのデータをインプット(送信)することに成功した。
エンターキーを叩いた刹那、俺は椅子の背もたれに深く身体を預けた。
視線は、天井の剥がれかけた塗装のシミを、焦点も結ばずに見つめ続けている。 疲弊。完全な、肉体の機能不全。
――チリーン。
スピーカーの回路が、短い電子のパルスを弾いた。
メールソフトの通知ではない。プラットフォームの管理システムでもない。右側のセカンドスクリーン、冷たい電子の箱庭の底から響いた不協和音。
ナオヤの名前の横の灰色の空欄が、唐突に、鮮やかな緑色のランプへと反転していた。
――Naoya - Online
不自然に眉をひそめる。まだ、白々しい昼のタイムラインだ。
普段の彼の運行表なら、大学の講義があるこの時間帯にログインしてくることなど、一度としてあり得なかったはずだ。ウィンドウをアクティブにし、青い光源エフェクトの描画と共にスポーンポイントへ出現した、彼のアバターの輪郭に網膜のピントを合わせる。
㠪し、今夜の、いや今日の彼の挙動は、これまで以上に歪んでいた。
㠪はインベントリを開くこともしなければ、武器のステータスを確認することもしなかった。システムサーバーによる位置情報の同期が完了した刹那、彼のアバターは、まっすぐにこちらのキャラクターの座標に向かって、異常な速度で直進してきたのだ。
そして、私のグラフィックの、正確に一歩手前の位置でピタリと静止した。
チャットログのカラムが、激しく跳ねる。
『お前』
ただ、二文字。疑問の関数も、随伴する台詞もない。
その文字列が出現した瞬間、液晶の画面全体に、昨夜よりも遥かにぶ厚い走査線のようなディ歪みが一度だけ奔った。
ウィンドウの左上隅、ネットワークの応答速度が、極限の赤色へと跳ね上がる。
――850ms.
黒いキーボードの上に、再び指先を滑らせる。恐怖と好奇心の混濁した、説明のつかない不快な熱が、再び胸の真ん中を冷たく 抉る。
『うん』
応答のパルスを流し込み、彼の次の出力を待った。
㠪の余白は、これまでになく寒々しく、息苦しい重量を伴って引き延ばされていった。
㠪たかも、二〇二七年の地平から送信されたデータパッケージが、こちらの二〇二六年の暗室へと辿り着くために、サーバー時間のエントロピーという名の分厚い防壁を無理やり 穿ち、 抉開けているかのような、長い沈黙。
二分近くの時間が、過酷な静寂のなかに沈殿していった。風がカーテンを揺らす気配もない。
やがて、液晶の底から、私の内の最後の均衡を木端微塵に破壊する、新しい一言が吐き出された。
『今日、行けるか?』
発光する硝子板の前で、全身の呼吸が完全に停止した。
今日、行けるか――? 行けるとは、何処への移動を指す関数だ。
文字列はディテールを完全に 隠蔽したまま、タイムラインの底に不発弾のように残されていた。まるで、俺たちが、いや私たちが、あらかじめそれ以外の選択肢を持たない「巨大な約束」を交わし終えている前提の響き。
だが、今の俺たちの間には、そんなプロトコルは一頁たりとも存在しないはずだ。
己の内の最も暗い仮説が、確実な輪郭を持って項へと侵食してくるのを、私はただ冷たく受け止めるしかなかった。
彼の生きる時間軸において。未来のその座標において。
俺たちは今、現在の私の理性が到底許容し得ない、何処かへ向かうための歯車を、すでに噛み合わせてしまっているのだ――。




