第60話:海の記憶と繋ぐお守り
波を追いかけ、砂でプリンや団子を作り、笑い合った海を後にして、トカゲとアヤメは宿に帰って来ていた。
日付は疾うに更新されている。宿の廊下。二人の足音以外は一切の無。一階にも二階にも、人が活動している気配は感じられない。
静寂を従えた廊下で、アヤメは寄り道挟まず自室のドアへ向かった。
「トカゲさん、今日は遅くまで付き合ってくれてありがとう」
背負っていた罪悪感も責任感もソロモの瞳も、全てを海に置き去りにしてきたアヤメの顔は、トカゲの部屋を訪ねた時よりも格段に清々しい。伏せていた目は正面を見据え、下がっていた口角は穏やかな下向きのカーブを描いている。曇りのない目を細め、彼女はドアノブに手を掛けた。
「おやすみ」
一言。満たされたアヤメは特にトカゲを頼ることもなく、挨拶だけ終えたら別れるつもりだった。
しかし、背を向けた彼女を呼び止める声が響く。声を掛けてきた相手は疑うまでもなくトカゲである。
「あ、待って」
「え?」
振り返ると、珍しくニヤニヤしていないトカゲが立っていた。平時は片時もアヤメから目を離さない彼だが、今回はどうしたわけか、彼女に目を合わせない。
「えーっと、ここに入れたと思うんだよね」
誤魔化すような独り言。トカゲは自身の羽織っているパーカーのポケットを漁り出す。
右のポケット。奥の方で小さな硬いものを掴んだ彼は、それを人間の手で軽く握り、アヤメの前へと差し出した。
「これ、今日のお土産に渡そーと思ってさ」
トカゲの手が開く。彼の拳から顔を出したのは、一つの貝殻だった。
アヤメは正面の少年の顔を数秒見つめた後、そっと手に取る。親指と人差し指で挟むようにして掴み、向きを変えながらじっくりと観察する。
親指の腹ほどの大きさ。白い。表面はザラザラしている。中心からやや逸れた位置には穴が開いている貝殻。穴を覗けば、前に立っている少年がひらひらと手を振っている。
穴越しに視線が交わると、トカゲが口を開いた。
「本当は穴の開いてない、キレーなのお渡ししたかったんだけど、これが案外見つかんなくてね。ちょっと、それで勘弁してちょーだい」
両手を合わせ、トカゲがおだてるように傾く。その影をなぞるように、アヤメも首を傾げた。
「これ、いつ拾ったの?」
「んー、アヤメちゃんが波に襲われてた時」
「襲われてたって……他に言い方ないの?」
「ないなー。まー、事実だし?」
中身のない会話。しかし二人が笑うには、それで十分。
アヤメが両手で貝殻を大事そうに抱える。トカゲはそれを指差した。
「それさ、『御守り』ってことにしない? ボクがいなくて寂しくなっちゃったら、アヤメちゃんはそれを抱き締めてよ。そしたらきっとボクのイケメンパワーが伝わって、安心出来ると思うから」
「……そうだね」
また冗談を言っている。トカゲという男は本当に、根っから素直ではない。いつだって嘘吐いて、隠してばかりである。
アヤメは彼の内に存在する『境界』を視ることもなく、呆れたように笑いを溢した。
「じゃあ、これ、トカゲさんの御利益があるってことみたいだし……大切にするね」
「うん、そうして。この世界に二つとない、アヤメちゃん専用のヤツだから」
「ありがと」
静かな廊下。日付も回っている。あまり長話は出来ない。アヤメは海で遊んだことで疲れていたのもあり、早々に会話を切った。
トカゲの御守りを握りしめ、ドアを開ける。先に見えるのは、一人で夜を越すための広い部屋。漠然と広がる暗闇が、彼女の胸の内、寂しいという感情を呼び覚ます。ドアを開けたきり、アヤメは立ち尽くした。
「……アヤメちゃん? どうかした?」
不安になったトカゲが声を掛ける。アヤメは振り返った。
正面には、いつまでも穏やかな表情を絶やすことなく待っていてくれている男。手の中には、彼から貰った思い出の象徴。数回、アヤメは交互に二つの間に視線を行き来させた。
――何だか、くすぐったいな。まだ寝たくないなんて。
彼女を眠らせまいとしていたのは、今まで通りの『恐怖』ではなかった。
代わりに台頭したのは――寝てしまえば。ドアを越えてしまえば。トカゲと二人で共有した時間が終わる。それがこの上なく切ない。そんな感情。その正体は『名残惜しさ』だった。
気付けばアヤメは足を一歩踏み出している。ドアの方ではなく、正反対の方角へ。
――がばっ。
追突するような衝撃を経て、アヤメが抱き着く。貝殻は右手で抱えたまま、トカゲの身体を包むように腕を回した。
ドク、ドク、と力強い脈動。これまで自分を幾度となく支えてくれた、熱い体温。最も肩の力を抜ける匂い。想像よりも分厚い胸板。
依存や恐怖から来る、安心を求めるような抱擁ではない。これは、己を騙し切れないほど強大になった愛しさを伝えるための、彼女なりの全力の抱擁だった。
目を閉じ、触覚と嗅覚だけでトカゲを感じる。気が済むまで、何秒でも。
やがて満足したアヤメは、ゆっくりと腕を解いた。『ふふっ』と笑ってはにかみ、照れるような顔でトカゲを見通す。彼の返事も待たないまま踵を返し、一人の世界へ足を踏み入れる。
去り際、アヤメはもう一度だけ振り返った。
「おやすみ、また明日」
控えめに手を振ってドアを閉める。アヤメが抱き着いてから今に至るまで、トカゲは何の言葉も発さなかった。抱きしめ返すこともなかった。ただ呆気に取られて目を見開いているだけ。けれども、今の彼女にはそれで十分だった。
――だって、トカゲさんは私を見ててくれるもの。
閉じた世界。彼の目を覗いて得た確信。アヤメは上機嫌で部屋の奥へ進んだ。
♢ ♢ ♢
二人が別れてから半刻ほど。
「ふんふーん」
呑気に鼻歌を歌いながら、アヤメは洗面所を出た。トカゲに掛けられた海水だけ洗い流し、ベッドに倒れ込む。
右を向く。普段その方向にいるのはトカゲ。しかし今日は、今晩は違う。あるのは彼から受け取った白い貝殻だけ。体を仰向けに直し、胸の前、両手で抱き締め、目を閉じる。
たったそれだけで思い出すのは、生涯忘れることはないであろう、初めての海の記憶。潮の香りも、さざ波の囁きも、吹き抜ける風の心地よさも、全部。全てが鮮やかに蘇る。
カッ、コッ、カッ、コッ、と時計が鳴る。出かける前は気が散って眠れなかった音。しかし今のアヤメにとっては雑音ですらなく、そんなものは聞こえていない。
ベッドに転がり、伸ばした手の先にある貝殻を見てうっとりしているだけ。
――また二人で出かけたいなぁ。
次に行く先はどこがいいだろう。次に行く先では何をしよう。
好都合な未来像を思い浮かべながら手を引き寄せ、再び貝殻を抱く。
「ふふっ、おやすみ。トカゲさん」
この場にはいない相手の存在を感じながら、アヤメは眠りに落ちた。
一人で眠ると言い張った、初めての晩。少女はどこまでも幸せな夢を見ている。何度寝返りを打っても貝殻だけは決して手放さず、アヤメは一夜を明かした。
【今日の一言】
実は同じタイミングで、ハルヴァンとシルバも密会していました。何をしていたか? そりゃあ勿論トカゲとガッツの修業の調子と、アヤメの依存をどう対処していくかの業務相談です。ガッツは一人で爆睡です。




