第43話:二歩目は潮風に誘われて
「――はいはい」
外の世界の人の話し声を聞いたトカゲは目を覚ました。現在、馬車は揺れておらず、肌感覚で感じる疾走感もない。馬車は停車中――そう断言出来る状況である。
「トリメルカからの馬車と。支部から?」
聞こえてきた会話から『オルグリス到着』の可能性を考えたトカゲは、半分寝ぼけた頭で馬車の窓を覗く。見えたのは一面の緑から打って変わって、一面の灰色。多少白の気が強いが、正しく直方体に加工された灰色の石が積まれた壁のようなものが視界を埋め尽くしている。
「よし。通行を許可します」
外から出された許可の声と同時に馬車が揺れ始める。灰色の壁は徐々に視界の端の方へと後退していき、代わりに壁と同じく薄灰色の建材で建てられた豆腐のような建物の姿が露わになる。木製の建物が多かったトリメルカとは対照的に石製の建造物が並ぶ街に、トカゲは見入っていった。
初めて見る景色に感動する傍ら、オルグリスの郊内に入ったことは確実に思える。そのことを自覚すると同時に、トカゲは数時間前に自らが口にした約束を思い出した。
『着いたら起こすから、寝てていいよ』
途端に左肩に乗っている熱が鮮明に伝わってくるような気がしてくる。
トカゲはアヤメに過度な刺激を与えぬように、静かにゆっくりと左方向を向いた。映るクセのないストレートの金髪は微動だにしていない。トカゲはアヤメが寝ていることを確認するために、彼女の顔を覗き込んだ。
――うーん、困ったね。ここまで熟睡してると、邪魔したくないな。
アヤメはとても平和な顔をして眠っていた。普段のように涙を流しているわけでもなく、口を固く噛み締めているわけでもない。呼吸だってゆっくりとしていて深い。様子から察するに、恐らく今回は魘されなかったのだろう。
トカゲはアヤメの症状の回復に喜びを感じ、微笑みを浮かべながら彼女の顔をしばらく見ていた。
少し経ち、馬車が停止する。トカゲは優しく肩を叩きながらアヤメに声を掛けた。
「もしもーし、アヤメちゃん」
「ん? うぅ……」
隣の少女が重そうに瞼を上げる。以前の蹴りの反撃のような挙動は見られず、眠そうに目を擦る様は至って普通の少女そのものだった。
「着いたよ、オルグリス」
「……え?」
既に到着済みである事実に困惑したアヤメがひょんな声を出す。背筋をシャキっと伸ばし、すぐにトカゲに疑問をぶつけた。
「もう着いたんですか?」
どうやらアヤメはもっと長旅になることを想像していたようである。トカゲはキョロキョロするアヤメを見ると、クスリと笑った。
「うん。そーみたい。ってことで、降りる準備しよっか」
♢ ♢ ♢
トカゲ、アヤメ、ガッツの三人が馬車から降りてオルグリスの地に足を付けたのは、太陽が真上に昇る真昼間だった。ポカポカとした陽気の下に出て、ここまで三人を運んでくれた馭者のスズキが駆る馬車が去るのを見送る。
潮風の吹き抜ける新天地での第一声を発したのは、トカゲでもガッツでもなく、意外にもアヤメだった。
「凄く、綺麗ですね」
「ね。今までに見たことのないタイプの景色だよねー」
アヤメの方を見れば、純粋な目が輝いているのが見える。右に左に孔雀色の瞳が世界を受容し、刻まれた花が笑顔を咲かせている。
「聞こえます? なんか、ザーン! っていう音」
トカゲの方を見て嬉しそうにアヤメが語る。トカゲは好奇の目を向け続けるアヤメの話題に乗り、耳を澄ませた。遠く、どこかからか、言われた通りの音が聞こえる。ザーン、ザザーン、と囁く海の声は実に穏やかだった。
「聞こえる聞こえる」
トカゲが一見雑にも聞こえる返事をする。しかしアヤメはそんなことは気にせず、高揚を隠せないままだった。トカゲの方に一足踏み出し、距離を詰めるように話し掛ける。
「それに、何ですか? この匂い。初めてなんですけど、何故か落ち着くっていうか、不思議な感じで」
「磯の香りじゃない? 港町だって言うし、海からする匂いだと思うよ」
「え? 海? 海があるんですか? 行ってみたい!」
楽しそうにはしゃぐアヤメの声が止む気配はない。トカゲもアヤメの言葉に逐一答えるため、ガッツは一人会話に参加するタイミングを失っていた。完全に蚊帳の外である。ガッツはわざとらしく一つ咳払いをすると、本題へと話を誘導しにかかった。
「割って入ってすまない。盛り上がるのもいいが、まずは任務だ」
「あ、そーね。ソッチが本題だったっけ?」
アヤメが申し訳なさそうに『ごめんなさい』と頭を下げる。
「ああ、そうだとも」
ガッツの言葉により、アヤメの熱を受けて観光気分になっていたトカゲもろとも引き戻される。その変化は分かりやすく顔に現れた。トカゲの顔が普段から絶やすことのない笑顔から仕事の顔に変わると、ガッツが言った。
「この後はどうする?」
「うーん、まずは支部長さんから言われた通り、支部に行くべきじゃない? なんか『提出してくれ』って言われてる物もあるしさ」
喋りながらトカゲが自身の腹部を探る動きをする。けれども、その手はただ宙を撫でるだけだった。
「あ、あれ? どーしたもんかな? 失くしちゃいけないんだけど……」
独り言をぼやき、視線を落とす。すると目に入ったのは普段愛用している緑のパーカーではなく、ただの白いシャツだった。トカゲはルコールから今朝直接受け取った封筒を探していたが、それは彼のパーカーのポケットに入っている。そしてそのパーカーは今、アヤメが羽織ったまま。
トカゲはアヤメに近づくと『ごめん』とだけ言ってポケットを漁り、お目当てのものを掘り出した。
手元に持った重要書類と思われるものを見せびらかすように、トカゲがひらひらと振る。今の今まで失くしかけていたことなど、微塵も気にしている様子はない。
「コレだよコレ。提出しないといけない」
「そんなに大事な物、もっと厳重に管理しておけ」
杜撰な管理をしているトカゲにガッツは苦言を呈し、溜息を吐いた。
「では、やることが明確ならば動くか。とは言っても、俺も支部の位置は知らんのだが」
「まあ、その辺は地元民に聞けば分かるでしょ」
三人は潮風が運ぶ陽気に誘われながら、場所の分からない支部へ向けて移動を始めた。その背を遠く、一軒の屋上から品定めするような一人の少女の目が追う。紫がかった銀髪が、彼らの影法師を睨んでいた。
「あの子がサクライ・アヤメちゃん。エバリスに聞いた限りだと、残る二人は支部の護衛っぽいかな。……報告と指示出し、しないとね」
あまり乗り気でない声が虚空に響く。その後、屋上に立っていた女はあたかも時を切り取り、再度繋ぎ合わせたかのように、パッと消えていなくなった。
今日の一言:
第二章開幕です。この章は第一章と比べて話の規模が大きくなりますので、是非ともお楽しみください。




