第42話:感情は嘘を吐かない
オルグリスへ向けて走り出した赤茶色の馬車は、トリメルカから少し離れた場所に位置する森の中を軽快に駆けていた。草が馬車の車輪に擦れる音が、微かに馬車の中の二人にも届く。
時刻はまだ八時を少し過ぎたところ。太陽が昇り切っていないため、多少の肌寒さを感じる。空に浮かんだ淡い残月が、冷たく大地を見下ろしていた。
馬車の中ではアヤメが左手の窓枠に体を寄り掛け、ぼんやりと景色を眺めている。彼女の右隣に座るトカゲが、その様子を見て口を開いた。
「アヤメちゃん、外の世界に興味津々だね」
「え? まあ、はい」
アヤメがトカゲの方を振り返りながら答える。話しかけられることを予期していなかったのか、アヤメの返事はたどたどしかった。
トカゲはアヤメが見ていた景色を見るために、目だけ左に寄せる。視界を埋め尽くしたのは予想を裏切らない、圧倒的な緑。他に映る色はなく、華やかさとは正反対の景色だった。
「やっぱり右と変わらないか。一輪くらい綺麗なお花が咲いててもいーのにね」
「何でですか?」
「もしあったらアヤメちゃんに採ってきてあげようと思ったんだけど」
花がなかったことに安堵し、アヤメはクスクス笑った。今までの行動を振り返れば、トカゲは本当に実行しかねないのである。
「走ってる馬車から降りるんですか? 結構難しいと思いますよ」
「んー、まあそこは一旦停めてもらうとしてさ」
もはや定番化した軽口が終わると、トカゲは自分の方の窓に目を戻した。
生い茂る草木には電灯の如く朝露が光っている。その雫を、枝に掴まった鳥が一粒ずつ弾いて飛び立つ。獣道が見え――。
草木の間を獣が無理やり押し入った道を見て、トカゲはあることを思い出した。
「そういえばねー」
トカゲが切り出した会話に反応して、アヤメの視線が自然と動く。
「聞いた話なんだけど、この辺にはクマさんがいるんだってさ。探せば見つかるかもしれないけど、そっちにいそうな感じ、する?」
「……熊なんて、いるんですか?」
一拍変な間が空いて、アヤメが答える。トカゲはその微妙な間が気になりつつも、話を続けた。
「うん、そーみたい。まあ、ボクも見たことないから、本当か分からないけどね。見てみたい?」
アヤメが右下へ視線を逸らす。一瞬躊躇うように唸ったが、その後すぐに彼女は答えを出した。
「馬車の中から、なら」
「そっか。まあクマさん危ないからね。じゃあ……」
一度話を区切り、トカゲは右に目を馳せる。
「ボクはコッチ探すから、アヤメちゃんはソッチお願い。見つけたら教えてよ」
「分かりました」
二人は同時に窓を覗く。始まった熊探しという名の暇つぶし。
それから小一時間程、アヤメは飽きることなく窓の外とにらめっこをしていた。一方でトカゲは早々に面倒くさくなり、開始から十分と経たぬうちに諦めてしまっていた。
だが、時間が経つにつれて徐々にアヤメの様子が変わってくる。アヤメは先ほどから定期的に窓に頭を寄せるような仕草を見せていた。
「アヤメちゃん? どうした?」
「うーん? あぁ……ちょっと、眠たくて」
右目を擦りながら答えるアヤメに、トカゲは納得する。
「まあ、今日は朝早かったもんね。無理もないんじゃない?」
「うん……」
返事も覚束ない。こうして話している間にもコクリ、コクリ、と舟を漕いでいる。眠いというよりは、既に半分寝ているようなものである。
トカゲは自らが羽織っていたパーカーを何の気なしに脱ぐと、アヤメにそっと掛けた。
「ん? ……ありがとう」
多少の困惑の後に、アヤメが遠慮なくパーカーを羽織る。彼女がパーカーを着終わったのを見届け、トカゲが口を開く。
「着いたら起こすから、寝てていいよ」
「……分かった」
ぼそぼそと呟くように言ったアヤメの頭が肩に触れ、トカゲは瞬間的に次の言葉を失う。予想外の距離感に驚き、口を突いて出たのは、当たり障りのない無難な言葉だった。
「おやすみ」
「……おやすみ」
しばらくして左隣からはすー、すーと子供が寝るような音がし始めた。
夢の国に旅立ったアヤメの顔を覗く。まだ眠って間もないため当然のことではあるが、いつものように魘されている様子はない。本筋とは異なるが、やはり整った顔立ちをしている。
静かに寝息を立てるアヤメを眺めるトカゲの脳裏には、懐かしい感覚が蘇っていた。
――家を出た後、マユも毎晩こうして寄って来たっけ。『寒いから』って言っていたのも本当だったんだろうけど、一番はそこじゃなかったんだろうな。
帰ってこない妹を思い出すトカゲの肩には、他人の熱が寄りかかっている。軽く溜息を吐き、トカゲはまるで自分を誤魔化すかのように話題を変えた。
自らの肩に頭を預けて寝ている少女を見る。その顔には、本人は自覚していない、寂しそうな影。
「……まったく、可愛い寝顔晒しちゃって」
軽口で誤魔化したトカゲは『もう二度と繰り返さないように』と気持ちを固めていた。しかし何があっても、絶対に外には出してはならない。そんな固い意志が彼の脳を縛る。
外に出してしまえば他人にも聞こえてしまうかもしれない。知られてしまえば、それは誓いになってしまう。誓いになってしまえば、破ることは赦されないのだ。
理性は塞ごうとするが、感情だけは言うことを聞かずに漏れ出ていく。
アヤメが寝ている時だけに出てくる本音。トカゲは自分が感情の一つもろくに口に出来ないことを情けなく思いながら、アヤメから視線を逸らした。見える景色は木々の緑だけ。やはり単調退屈変わりない。それ故か、トカゲもその後すぐに寝落ちしてしまった。
そしてトカゲが眠りについてしばらくした頃。眠った彼の頭は、自然とアヤメの方に傾いていた。
今日の一言:
何気に初ではないでしょうか。トカゲとアヤメの二人きり且つ何も起きない平和な話、というのは。これまでは堕魂やらエバリスやら面倒者いっぱいだったもんね。章の〆くらいは平和なのもいいでしょう。




