第36話「音を集める」
紙が完成してから、まだ、ひと月ほどしか経っていなかった。湊は、十六歳のままだった。
ある朝、湊は、完成したばかりの紙の束を手に、ケイのもとを訪ねた。ケイは、村の中でも、数を扱うことに、確かな才を持つ、年配の男だった。
「ケイ、紙は、できた。でも、まだ、これに、何を、どうやって書けばいいのか、決まっていないんだ」
ケイは、湊の言葉に、少し考え込んだ。
「これまでは、お前さんが、絵と、覚えている日本の文字を、混ぜて書いていたな」
「ああ。でも、それじゃあ、俺以外の誰も、正確には読めない。もっと、みんなが、覚えやすい、簡単な仕組みが、必要なんだ」
湊は、地面に、いくつかの単純な線と点を、描いてみせた。
「共通語の、音一つ一つに、こういう、簡単な記号を、当てはめられないかと思っている」
ケイは、その絵を、じっと見つめた。
「音一つ一つ、というと……どれくらいの数に、なるんだ?」
「それが、俺にも、まだ、わからない。まず、村の人たちが、普段、どんな音を使って話しているか、一つ一つ、確かめていく必要がある」
この日から、湊とケイは、村の人々が日常的に使っている単語を、片っ端から書き出し、そこに含まれる音を、一つ一つ、丁寧に拾い出していく作業を、始めることになった。
この作業は、想像以上に、骨の折れるものだった。ある日、湊とケイは、ガル、シラ、ミオの三人を、集会所に集めた。
「みんなに、協力してほしいことがある」
湊は、事情を説明した後、三人に、同じ単語を、順番に、発音してもらった。
「みず」
まず、ガルが、口にした。次に、シラが、続いた。最後に、ミオが、発音した。
湊とケイは、三人の発音を、注意深く、聞き比べた。
「微妙に、違うな」
ケイが、つぶやいた。ガルの発音は、やや、喉の奥から出るような、低い響きを持っていた。ミオの発音は、それよりも、軽やかだった。
「これは……同じ音として、扱っていいものか、それとも、別の音として、区別するべきか」
湊も、頭を悩ませた。
「難しいところだな。あまり、細かく分けすぎると、覚えるのが、大変になる。でも、大雑把にしすぎると、今度は、聞き取りにくくなる」
この、音を整理する作業だけで、三週間ほどの時間が、費やされることになった。湊とケイは、幾度も、村の様々な人々を集めては、同じ確認作業を、根気強く、繰り返していった。
こうした作業の末、湊とケイは、共通語の基本的な音を、およそ三十種類ほどに、整理することができた。
「これで、ようやく、音の一覧が、できたな」
湊は、深く息をついた。だが、次なる課題が、すぐに、目の前に、立ちはだかっていた。
「あとは、それぞれの音に、記号を、割り当てないと」
湊は、この役目を、イワに託すことにした。
「イワ、この、音の一覧に、それぞれ、簡単な記号を、考えてもらえないか。誰でも、覚えやすくて、紙に書きやすいものが、いい」
イワは、湊から渡された、音の一覧を、じっくりと眺めた。
「線と、点の、組み合わせ、ということですね」
「そうだ。あまり、複雑にしないでほしい」
イワは、この作業に、彫刻で培ってきた、確かな造形感覚を、存分に発揮していった。それぞれの音に、他の記号と、はっきり区別できる、簡潔な形を、一つ一つ、丁寧に、考え出していった。
文字体系が、ある程度形になったところで、湊が直面したのは、これを、村全体に、どう広めていくかという、次なる課題だった。
湊は、まず、八人の協力者たちに、この新しい文字を、優先的に教えることにした。だが、この最初の段階から、湊は、思わぬ困難に、直面することになった。
ある日、湊は、ガルに、文字の書き方を、教えていた。ガルは、狩猟や統率においては、誰よりも優れた才を持っていたが、細筆――いや、まだ、木の枝の筆記具だったが――を持つ手は、ぎこちなく、震えていた。
「線が、うまく、まっすぐ引けない」
ガルは、苛立った様子で、紙を、机に、叩きつけるようにして、置いた。
「俺には、向いていないのかもしれない」
湊は、この言葉に、はっとさせられた。これまで、湊は、文字を覚えることを、当然、誰もが同じように習得できるものだと、無意識に考えていた。だが、得手不得手は、当然、人によって、異なる。
湊は、ガルの肩に、そっと手を置いた。
「無理に、全部を、完璧に覚える必要は、ないんだ」
「でも……」
「狩りの記録なら、簡単な絵と、獲物の数を示す印だけでも、十分に役に立つ。お前が、狩りで、村を支えてくれているように、文字は、また別の誰かが、得意なところを、担ってくれればいい」
この言葉に、ガルは、少し表情を、和らげた。
「それなら……できる、かもしれない」
実際、ガルは、複雑な文章を綴ることは、苦手なままだったが、獲物の種類や数を、簡潔な記号で書き残すことには、次第に、慣れていった。
一方で、シラやミオは、比較的早く、文字を、習得していった。特にシラは、薬草の名前や、症状の記録を、正確に書き残すことに、大きな価値を見出していた。
「これまで、頭の中だけで、覚えていたことが、こうして、紙に残せるなんて……」
シラは、ある日、湊に、そう、感慨深げに、語った。
「忘れっぽい私にとっては、本当に、助かります」
湊は、この個人差を見ながら、一つの方針を、固めていった。すべての人が、同じ水準で、文字を使いこなせるようになる必要は、ない。それぞれが、自分の必要とする範囲で、少しずつ、文字に、親しんでいけばいい。
この方針のもと、湊は、文字教育の進め方を、いくつかの段階に、分けることにした。まず、最も基本的な、自分の名前や、日常でよく使う単語を、書けるようになる段階。次に、簡単な記録――数量や、出来事の日付を、書き残せる段階。そして、より複雑な文章を、綴れる段階。
この文字体系の考案から、村の主だった人々が、ある程度、日常的に使えるようになるまで、二ヶ月ほどの時間が、必要とされた。
湊はレポート用紙――いや、今や、村で漉かれた紙に、この一連の試みを、書き記した。
『共通語の発音を整理し、表音文字による簡素な文字体系を考案。イワが記号の形を設計』
『文字の習得には、個人差が大きいことが判明。段階を分け、それぞれのペースで学べる仕組みに改めた』
夕暮れ、湊は、集会所の壁に、少しずつ、書き足されていく、様々な人の手による、文字を、眺めていた。ガルの、簡潔な狩猟記録。シラの、丁寧な薬草の一覧。
湊は、この壁を見つめながら、静かに、微笑んだ。完璧である必要は、ない。それぞれが、それぞれのやり方で、この新しい道具と、向き合っていく。その多様な営みこそが、この村の、確かな豊かさなのだと、湊は、改めて、実感していた。
湊は、十六歳のまま、この作業を終えた。この世界に来てから、二年と三ヶ月ほどが、過ぎていた。
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【第36話 時点 文明発展状況】
湊16歳/漂着後 2年3ヶ月
人口:43人
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01 生存・サバイバル ★★★☆☆ 継続中
02 食料・農業 ★★★☆☆ 継続中
03 畜産・動物 ★★☆☆☆ 継続中
04 漁業・水産 ★★★☆☆ 継続中
05 狩猟・採集 ★★☆☆☆ ガルが簡易記号による狩猟記録を開始
06 水・衛生 ★★★☆☆ 継続中
07 医療・薬学 ★★★☆☆ シラが文字による症例記録を開始
08 住居・建築 ★★★☆☆ 継続中
09 土木・インフラ ★★☆☆☆ 継続中
10 火・エネルギー ★★★☆☆ 継続中
11 鉱業・金属 ★★☆☆☆ 継続中
12 製造・工業 ★★★☆☆ 継続中
13 科学・技術 ★★☆☆☆ 継続中
14 言語・文字・出版 ★★★☆☆ 表音文字体系を確立、村への普及を開始
15 教育・研究 ★★☆☆☆ 文字習得の個別ペース制を導入
16 経済・商業 ★☆☆☆☆ 継続中
17 政治・法律・行政 ★★☆☆☆ 継続中
18 外交・交通・情報 ★★☆☆☆ 継続中
19 軍事・防災・治安 ★★☆☆☆ 継続中
20 文化・娯楽・思想 ★★★☆☆ 多様な手による文字の書き込みが、村の日常風景に定着
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