第34話「通じない言葉」
人口の増加を数え終えたその日の午後、湊は、思いがけない壁にぶつかっていた。
きっかけは、新たに村に加わった家族――半年ほど前、飢えて倒れかけていたところをガルが見つけ、連れ帰った、母と幼い息子の二人だった。母親の名はメイ、息子はロウといった。
二人は、村の暮らしに、少しずつ馴染みつつあった。だが、湊が困惑していたのは、別のことだった。ロウという少年に、村の共通語――湊とガルが最初に作り上げ、以降、村全体で使われるようになっていた言葉を、教えようとしても、なかなか定着しないのだ。
湊は、これまで、共通語というものを、あまりに簡単に考えすぎていたことに気づかされていた。
最初にガルと言葉を交わし合ったときのことを、湊は思い出していた。あのときは、二人きりで、毎日、絵と身振りを繰り返しながら、根気強く単語を積み上げていった。だが、今、湊が向き合っているのは、まったく異なる状況だった。
ロウは、まだ五歳ほどの幼い子供だった。彼にとって、母と交わしてきた言葉――村の共通語とはまったく異なる、独自の発音と単語を持つ、彼ら自身の母語こそが、生まれてから慣れ親しんできた、唯一の言葉だった。
湊は、ロウに、村の単語を一つ一つ、絵を見せながら教えようとした。水の絵を見せ、「みず」と発音する。だが、ロウは、その音を真似ようとしても、微妙に違う音になってしまう。何度も繰り返すうちに、ロウは、次第に苛立ちを見せるようになっていった。
「なぜ、うまくいかないんだ……」
湊は、独り言のようにつぶやきながら、これまでの自分のやり方を、改めて振り返っていた。
思えば、湊自身、ガルの部族の言葉を、完全に習得したわけではなかった。あくまで、互いの言葉の単語を、少しずつ持ち寄って作り上げた、いわば「混成語」が、村の共通語として定着していったのだ。それは、湊にとっても、ガルにとっても、母語ではない、新しく生み出された言葉だった。
だが、ロウにとって、この共通語は、湊やガルの世代とは異なる立場のものだった。ロウの母語――メイが話す、彼ら独自の言葉との間に、大きな隔たりがある。
湊は、この課題について、シラに相談することにした。シラは、これまで、村の子供たちの教育にも、深く関わってきた人物だった。
「言葉を覚えるのは、大人よりも、子供のほうが早いはずです。でも、ロウの場合は……」
シラは、少し考え込んでから、続けた。
「メイさんが、家では、ずっと自分たちの言葉を使っているのかもしれません。ロウにとって、家の中と外とで、まったく違う言葉を使い分けなければならない状況は、簡単ではないはずです」
湊は、その指摘に、はっとさせられた。これまで、湊は、村に加わった人々が、自然と共通語に馴染んでいくものだと、どこか楽観的に考えていた。だが、実際には、それぞれの家庭の中で、元々の言葉が、まだ根強く残り続けている場合があるのだ。
湊は、メイのもとを訪れ、この課題について、率直に話し合うことにした。メイもまた、たどたどしい共通語を使いながら、自分の悩みを語ってくれた。
「私も、まだ、この村の言葉が、うまく使えません……。ロウに教えようとしても、私自身が、間違えてしまうことがあります」
湊は、この言葉に、改めて、言葉の伝承という営みの難しさを、痛感させられていた。単に、単語の対応表を作れば済むという、単純な問題ではない。話す者自身が、まだ不完全にしか習得できていない言葉を、次の世代に、正確に伝えていくことの困難さ。
湊は、この課題に対して、これまでとは違うアプローチを試みることにした。
まず、ロウのような、まだ言葉を学び始めたばかりの子供たちを対象に、遊びを通じて言葉を学ぶ場を、学び舎に新たに設けることにした。単語を機械的に暗記させるのではなく、村の子供たち同士が一緒に遊びながら、自然と共通語に触れる機会を増やす。子供同士のほうが、大人が教えるよりも、時に、ずっと早く言葉を吸収していくことを、湊はこれまでの経験から、うっすらと感じ取っていた。
同時に、湊は、メイのような、大人になってから村に加わった人々のためにも、簡単な言葉の教室を設けることにした。焦らず、少しずつ、日常で使う単語から、丁寧に積み上げていく。
この試みは、すぐに劇的な成果を生むものではなかった。それでも、数週間、数ヶ月と時間をかけるうちに、ロウは、他の子供たちと一緒に遊ぶ中で、少しずつ、共通語を口にするようになっていった。最初はぎこちなかった発音も、次第に、村の他の子供たちに近いものへと、変わっていった。
湊は、ある日、ロウが、他の子供たちと共に、笑いながら追いかけっこをしている様子を見かけた。その口から、はっきりと、「まって!」という、村の共通語が飛び出しているのを聞いて、湊は、小さな、しかし確かな達成感を覚えた。
湊はレポート用紙に、この一連の経験を書き記した。
『新たに村に加わった家族の子・ロウを通じて、言葉の伝承の難しさを実感』
『大人が不完全にしか習得していない言葉は、子供にも、そのまま不完全に伝わってしまう』
『子供同士の遊びを通じた学びの場、大人向けの言葉の教室を、それぞれ新設』
『言葉は、一朝一夕には根付かない。焦らず、繰り返し、時間をかける必要がある』
書きながら、湊は、自分がこれまで、あまりにも簡単に「共通語ができた」と考えていたことを、反省せずにはいられなかった。ガルとの間で最初に単語を積み上げたときの苦労は、今も鮮明に覚えている。だが、その言葉を、村全体に、そして次の世代に、正確に、確かに伝えていくことは、また別の、根気のいる営みなのだと、湊は改めて実感していた。
夕暮れ、湊は学び舎の前を通りかかった。中からは、子供たちの声が聞こえてくる。ロウの声も、その中に、確かに混じっていた。まだたどたどしいが、それでも、村の言葉を、自分の言葉として、少しずつ、身につけ始めている。
湊は、その声を聞きながら、静かに微笑んだ。言葉というものは、技術書のように、一度書けば、そのまま形として残るものではない。人から人へ、口から口へ、そして世代から世代へと、絶えず語り継がれ、時に形を変えながら、受け継がれていくものなのだ。
その脆さと、同時に、その営みが持つ、確かな力強さを、湊は、この日、改めて胸に刻んでいた。
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【第34話 時点 文明発展状況】
人口:57人(本村49人・河口拠点8人)/漂着後 815日
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01 生存・サバイバル ★★★★★ 継続中
02 食料・農業 ★★★★☆ 継続中
03 畜産・動物 ★★★☆☆ 継続中
04 漁業・水産 ★★★★☆ 継続中
05 狩猟・採集 ★★★☆☆ 継続中
06 水・衛生 ★★★★☆ 継続中
07 医療・薬学 ★★★☆☆ 継続中
08 住居・建築 ★★★★☆ 継続中
09 土木・インフラ ★★★★☆ 継続中
10 火・エネルギー ★★★★☆ 継続中
11 鉱業・金属 ★★★☆☆ 継続中
12 製造・工業 ★★★★☆ 継続中
13 科学・技術 ★★★☆☆ 継続中
14 言語・文字・出版 ★★★★☆ 共通語伝承の難しさが表面化、遊びを通じた教育法を考案
15 教育・研究 ★★★★☆ 子供向け・大人向け、それぞれの言語教室を新設
16 経済・商業 ★★★★☆ 継続中
17 政治・法律・行政 ★★★★☆ 継続中
18 外交・交通・情報 ★★★★☆ 継続中
19 軍事・防災・治安 ★★★☆☆ 継続中
20 文化・娯楽・思想 ★★★★☆ 継続中
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【新規記述書物】『言葉を継ぐ書・第一葉』(言語伝承の課題と対策の記録)
【次なる課題】辞書の体系化、発音の統一に向けた継続的な取り組み】
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