<3:兆候>
放課後の校舎は、異様に静かだった。
部活の声も、掃除当番の足音も、誰かの笑い声も——何も聞こえない。
普段なら賑やかな廊下や教室、グラウンドが、まるで時が止まったように無人だった。
空気は重く淀み、微かな埃の匂いと、床のワックスの古い残り香だけが、鼻の奥をくすぐる。
「今日は皆さん、休みなのですか?」
火乃香が静かに問う。その声は柔らかかったが、廊下に響く響きが妙に澄んでいた。
「……さぁ。部活休みの連絡は、なかったはずだけど…」
その言葉を口にした瞬間、違和感がさらに加速した。
連絡はなかった。それが、逆に不自然さを増幅させる。
俺たちは無人の廊下を歩き始めた。
足音だけが、妙に大きく響く。誰もいない空間が、俺たちの存在を強調しているようだった。
火乃香は時折立ち止まり、教室の窓やグラウンドを眺めながら、穏やかに言った。
「望月さん、気付いてます?……普通から、逸れていること。」
その瞳が、まっすぐに俺を捉える。
刹那、胸が締めつけられた。
心臓を冷たい手で握りしめられたような、息苦しさと圧迫感。
背筋を冷たい汗が伝う。
火乃香は柔らかく微笑んだまま、ゆっくりと歩き続ける。
優しい声。
穏やかな笑み。
なのに、その言葉は冷たい棘のように、オレの心に刺さっていた。
「気づいてるって…俺は普通だろう?」
平然を装って、なにもないように話す。動揺していることが悟られないことを祈って
「気づいていないのか…気づいていないふりをしているのか…どっちなんでしょうね?」
心の奥底を見透かすような目線で、火乃香が静かに紡ぐ。
「この学校…というか、最近の望月さんの日常…本当に普通ですか?」
「普通、だろ。俺はそう思ってる。」
火乃香の鋭い目線が、俺の瞳を射抜く。
「でも、本当にそうですか?しっかり、見てください。もう、普通じゃないんですから…」
その言葉が胸に刺さる。心臓が早鐘をうち、目の端が歪む。
「俺は……普通…だ」
「ふふ…そうですね。でもいつかは現実を見なきゃいけないんですよ。」
火乃香の微笑みが、優しく、しかし底知れなく冷たい。
俺は一瞬、言葉を失った。
胸の奥で、静かに、しかし確実に囁く。
——もう、気づいているんだろ?
『それ』が自らに問いかける。
「いつも…現実しか見ていないさ。だから、普通なんだよ」
俺はそう吐き捨てると、火乃香は微笑む。
「そうですか…なら少し見てください。」
彼女はそう言って、三年の空き教室の扉を開ける。中は、同じだった。なのに、窓の外から見えるグラウンドが…一瞬、赤く染まって見えた、気がした。あの鳥居と同じ、朱い色。
「見えました?普通じゃないものが」
火乃香の声が、耳に響く。さっきまでと同じ、優しい声なはずなのに…耳の奥にへばり付く。
俺は首を振る。気の所為だ、見間違えたんだ。多分疲れているんだと思う。
しかし、火乃香は…変わらない声色で、現実を突きつける。
「望月さん…貴方はもう、『そっち側』には、いられないんですよ。」
その瞬間、あの神社で見た、幼い巫女の声が聞こえる。
『遅い、もう…』
俺は思わず振り返る。そこには、誰もいない廊下があった。
全身に鳥肌が立つ。本当は、わかっている。もう戻れないことに…
息が荒くなる。呼吸を繰り返しても、脳まで酸素が行っていないみたいに足元がふらつく。
「お前は…一体何なんだ…?」
「私ですか……?
今更ですねぇ、まだ気づいていないんですか?」
火乃香の唇が動く。
しかし声は聞こえない。ただ冷たい微笑みだけが、はっきりと俺に向けられていた。
その瞬間、リィン…と鈴の音とともに聞き覚えのある幼い声が脳裏に響いた。
『遅い……もう……』
俺は思わず振り返る。
誰もいない廊下。
全身に鳥肌が立ち、息が荒くなる。
足元がふらつく。
「お前は…一体何なんだ?人…なのか…?」
火乃香の表情から苛立ちが消え、笑みが、さらに深くなった。
「はい……そうですよ。
ようやく、思い……出しましたね?」
その瞬間、頭の中で何かがカチリと音を立てた。
……父さん。
中学1年の春、父さんは毎年4月になると体調を崩していた。
理由を聞けば「忙しいだけだ」と笑うだけだった。
姉さんも同じ答えを返すだけだった。
そして次の年、中学2年の春。
父さんは突然、蒸発した。
手がかりは何も残さず、朝起きたらもういなかった。
あの記憶が、火乃香の笑顔を見た瞬間に、鮮明に蘇ってきた。
「お前……本当に、あの時の……」
俺の声が震える。
火乃香は静かに微笑んだまま、ゆっくりと首を傾げた。
「ようやく、気づきましたか?」
リィン…まただ。またあの鈴の音。
「父さんを…どこにやった…?」
いくら探しても得られなかった父さんの手がかりを…眼の前の女が持っている。
穏やかで‥でも妖しい笑みで、微笑みながら言う。
「もしかしたら……知ってるかも、しれないですね?」
その言葉が落ちた瞬間、背後からコロン……という音が響いた。
下駄の音か。
俺は慌てて振り返る。
そこに立っていたのは、狐の面を被った巫女装束の女だった。
「私ですよ……?望月さん……」
制服姿の火乃香が微笑む。
「私も、宇迦之火乃香ですよ?」
二人の火乃香が、同時に俺を見つめていた。
「……なんで…二人?」
冷や汗が背中を伝う。足がすくみ、声が震える。
「ドッペルゲンガーじゃないですよ?」
制服姿の火乃香が静かに言った。
その瞬間、世界から音が消えた。
真空のような静寂の中、二人の火乃香が同時に微笑んだ。
狐の面の巫女がゆっくりと面を外す。
そこにあったのは、火乃香と同じ顔——しかし、瞳の奥に底知れない闇を宿した表情だった。
「どっちが本物か……
貴方には、わかるはずですよ?」
二人の火乃香が、同時に一歩近づいてくる。
胸のざわつきが、今までで一番激しく脈打った。
——もう、逃げられない。
俺は後ずさろうとした。でも足が動かない。
視界の端に映る廊下が歪み始めている気がした。
眼前の二人の火乃香が言う。
「ようこそ、[こちら側]の世界へ」
その瞬間、世界が朱く染まった。




