<2:隙間>
「ただいま、姉さん」
扉を開けた瞬間、張りつめていた糸が音を立てて切れた。
膝から力が抜け、壁に手をつく。
指先が冷たく痺れ、胸の奥でまだ小さな痙攣が続いている。
あの鳥居の下で見た巫女の笑顔が、瞼の裏にこびりついて離れない。
「ねぇ悠〜ご飯まだ〜?」
リビングから、のんびりとした声が響いた。
「……わかった、ちょっと待ってて」
荷物を床に放り投げ、キッチンへ向かう。
包丁を握った指が、小さく震えていた。
完璧すぎる笑み。優しくて穏やかで——なのに、底の見えない冷たい闇を感じさせたあの表情が、頭から離れない。
「悠〜? どうしたの、顔色悪いよ?」
突然、姉さんが背後に回り込み、俺の頬を軽く突っついてきた。
その目は、のんびりした声とは裏腹に、はっきりと俺を捉えていた。
「すごいしかめっ面…珍しいね?」
「……なんでもない。ただ、疲れてるだけ」
笑顔を作ろうとするが、頰が引きつる。
胸の奥で蠢き続けるざわつきが、執拗に囁いている。
——認めろ。
もう、始まっているんだ、と。
食卓で姉さんが一口食べてから、ふと箸を止めた。
「ねぇ、やっぱり何かあったでしょ?」
姉さんの視線が、予想以上に深く俺を刺す。思わず目を逸らした。
「まぁ、ちょっとね……別に大したことじゃないよ」
「じゃあなんで、私より先に食べ終わってないの?」
指摘されて、肩が小さく震えた。
自分の皿を見下ろすと、まだ半分以上残っていた。
「別に…無理に聞き出そうとは思わないよ?
言いたいときに言ってくれれば、それでいいの。お姉ちゃんは悠が好きなように生きてくれれば……それでいいの」
その優しい言葉に、胸がズキンと痛んだ。
笑われることを覚悟しながら、今日あったことをポツポツと話し始めた。
「へぇ…色々あったね。環境の変化、疲れたでしょ?明日はゆっくり休みなさい?」
そんなことを言われると思わず、顔を背けた。
そのとき——インターホンが鳴った。
「悠は食べてていいよ」
姉さんが玄関に向かう。宅配か何かかと思いながら待っていると、間もなく不思議な顔をした姉さんが戻ってきた。
「……いたずら、かな? 誰もいなかったよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で沈めていたざわつきが、一気に息を吹き返した。心拍数が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。姉さんに気づかれないよう、なんとか平静を装いながら、俺は部屋に戻った。
目の奥が痛む。眠る寸前までざわつきが落ち着かず、うまく眠れなかった。
翌朝。
「おはよぅ…姉さん?」
いつもなら朝食をねだる声が、今日は聞こえない。
首を傾げながら玄関に向かう。
通学路を歩きながら、何度もあくびを噛み殺す。
いつもよりも眠れなかったせいか、足取りが重い。
ふと、違和感が背中に突き刺さった。
……ここ、昨日の神社への道だよな?
足を止める。
昨日は鮮やかだった赤い鳥居が、色褪せてぼろぼろに崩れ落ちている。
石灯籠は半分以上が苔と蔦に飲み込まれ、ひび割れた手水舎には濁った雨水が溜まり、白いカビが浮いていた。
鉄錆と腐った葉、湿った土の混じった、死んだような甘ったるい匂いが鼻の奥を刺激する。
風が吹くたび、古い木が軋む音が不気味に響いた。
「昨日……の、神社……?」
一夜でこんなに変わるはずがない。
境内へ足を踏み入れると、さらに異様な光景が広がっていた。
本殿は蔦の緑に完全に覆われ、屋根の瓦は崩れ落ち、内部は暗く淀んだ空気が漂っている。
胸の奥で、昨日まで絶え間なく続いていたざわつきが——今は、不気味なほどに静かだった。
そのとき、小さな祠が目に入った。
その祠だけが、周囲の荒廃とはまるで違う存在感を放っていた。
小さいのに、得体の知れない重い圧が体を強張らせる。
近づけば近づくほど、肌が粟立ち、背筋が冷たくなる。
長居はしたくない。
でも、離れたくない。
相反する感情に押しつぶされそうになりながら、俺は祠の前に立ち尽くした。
表面に薄く刻まれた記号のようなものに、そっと指を伸ばす。
触れた瞬間——
視界が真っ白に染まった。
そこにいたのは、昨日の巫女だった。
ただし、ずっと幼い姿で、深い悲しみに満ちた表情を浮かべている。
「もう……遅いんだよ……?」
その声が、頭の中に直接響いた。優しくて、哀しい、まるで全てを諦めたような声。
「なにが……っ!」
手を伸ばそうとした瞬間、幻覚は消えた。
俺は祠の前に膝をついていた。
冷や汗が額を伝い、息が荒い。指先が痺れる。
「……今の、なに?」
あたりは再び静寂に包まれている。
しかし、さっきまで何も感じなかった祠に、「ナニカ」が確かに宿っている気がした。
俺はゆっくり立ち上がり、廃墟と化した境内を見渡した。
この場所は、もう「普通」じゃない。
そして、俺も——確実に、変わり始めている。
「…そろそろ学校いかなきゃ、な」
境内を抜け、朽ちかけの鳥居をくぐる。4月にそぐわない冷ややかな風をうけ、学校に向かった。
教室に入ると、朝っぱらから騒々しい声が響く。
「おはよう!悠」
快活な声で話しかけてくる晴
「晴…うるさい。いつもより寝れてないの…もう少し、控えて」
声が自然と低くなる。
晴は一瞬目を丸くしたが、すぐにニヤニヤした表情になる。
「なんだよ、何かあったのか?」
晴がニヤニヤしながら聞いてくる。
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
消えたはずのざわつきが、晴の明るい声に呼応するように、胸の奥で静かに蠢き始めた。
不意に、背後から柔らかい声がかけられた。
「望月くん……ですよね?」
振り返ると、そこに宇迦之火乃香が立っていた。
「あぁ……宇迦之……火乃香さん、だっけ?俺は望月悠…」
彼女は静かに頷いた。
その瞳の奥に、昨日鳥居で見たものと同じ、底の見えない静けさを感じて、俺は思わず視線を逸らした。
「突然すみません……学校のこと、まだよくわからなくて。
もしよければ、案内をお願いしてもいいですか?」
「……なんで俺に? 委員長のほうが、詳しいと思うけど」
火乃香は少し困ったように微笑んだ。
「小鳥遊さんが、望月さんのほうが適任だって……」
後ろから恵の声が飛んできた。
「だって、貴方何もしないじゃない。少しくらい、なにかしなさいよ……」
恵に恨みがましく言われ、俺はため息を吐いた。
「……わかった。今日は暇だから、放課後案内するよ」
火乃香は柔らかく微笑んだ。
火乃香は柔らかく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で沈めていたざわつきが、再び激しく疼いた。
優しい曲線を描く唇、穏やかな目元——なのに、その奥に潜む冷たい静けさが、俺の背筋を凍らせる。
触れれば凍りついてしまいそうな、完璧すぎる冷たさだった。
放課後。
教室で待っていた火乃香を見つけ、駆け寄る。
「ごめん、待たせたかな」
「大丈夫です。今来たところですよ」
彼女が振り返る。その瞳は優しく、しかしどこか深く俺を映していた。
底の見えない、静かな水面のような瞳。
「望月くん……ここには、面白いものがたくさんあるんですね?」
その一言に、背筋がゾッとした。
優しい声。
穏やかな笑み。
なのに、その言葉の奥に隠された響きは、まるで俺の胸の奥底を覗き込んでいるようだった。
火乃香は柔らかく微笑んだまま、ゆっくりと歩き始めた。
俺は一瞬、動けなかった。
胸の奥で、再び激しく疼き始めたざわつきが、静かに、しかし確かに囁いていた。
——もう、気づいているんだろ?




