<4:境>
世界が、朱く染まった。
夕暮れ時の柔らかい朱とは違う、
絵の具をぶちまけたような、濃く禍々しい赤。
視界の端から中央に向かって、ゆっくりと、しかし確実に世界が塗り替えられていく。
呼吸が荒くなる。
肺が縮むような息苦しさ。
心臓が早鐘を打ち、耳の奥で自分の鼓動がうるさく響く。
「どうしたのです?」
二人の火乃香が、寸分の狂いもなく同時に話しかけてくる。
二人の唇が動いているのに、聞こえてくる声は一つだけ。
重なり合うはずの声が、完璧に同期している。
足が動かない。
自分の体が、自分のものではないように固まっている。
視界が、再び歪む。
火乃香の顔が、一瞬透けた。
その奥に、黒くねじくれた何かが、ゆっくりと蠢いているのが見えた気がした。
「悠……さん?」
二人の火乃香が、同時に首を傾げた。
その動きも、完璧に同期している。
俺の指先が、熱を帯びて震え始めた。
「その……黒いのは…何なんだ?」
恐る恐る、禁忌に触れるかのように問う。
「あぁ……これは……………」
火乃香の声が、ノイズに塗りつぶされるようにぼやけていく。
耳に届いたはずなのに、意味が掴めない。
まるで常世の言葉を無理やりこの世界に落とそうとしているかのように。
俺は頭を抱えた。
視界が切り替わる。
廊下の壁が波打ち、床が水面のように揺らぐ。
火乃香の後ろに、赤い鳥居がぼんやりと浮かんでいる。
さっきまでなかったはずの鳥居が、そこに確かに存在している。
「見えてきたみたいですね……」
二人の火乃香が、同時に囁いた。
今度は、声が三重に聞こえた。
優しい声、冷たい声、そして、幼い巫女の声。
俺の指先が、熱を帯びて震えていた。
——これは、俺の……?
突然、胸の奥で何かが爆ぜた。
視界が、真っ赤に染まる。
今まで見えていた世界が、剥がれ落ちるように消えていく。
代わりに現れたのは、朱い鳥居が無数に並ぶ、歪んだ空間だった。
そこに、二人の火乃香が立っている。
一人は制服姿。
もう一人は、狐の面を被った巫女装束。
「ようこそ……『こちら側』へ。」
声が、重なる。
二人の口が動いているのに、聞こえる声は一つ。
完璧に同期した、底知れない響き。
俺は後ずさろうとしたが、足が動かない。
視界の端で、鳥居の向こうに、父さんの影がちらついた気がした。
「父さん……!」
叫んだ瞬間、視界が再び切り替わる。
今度は、父さんがいた頃の記憶が、鮮明に浮かび上がった。
中学1年の春、父さんの体調が悪化した日。
父さんは、ぼんやりとこう言っていた。
「……お前には、まだ早い……
でも、いつか……境を越える日が来るかもしれない……」
あの時の言葉の意味が、今、痛いほど理解できた。
火乃香(制服姿)が一歩近づく。
「貴方はもう、普通じゃないんですよ。」
狐の面の巫女が、ゆっくりと面を外す。
そこにあったのは、火乃香と同じ顔——しかし、瞳の奥に底知れない闇を宿した表情だった。
「どっちが本物か……
貴方には、わかるはずですよ?」
二人が、同時に微笑む。
俺の視界が、再び歪む。
今度は、廊下全体が鳥居の森に変わっていく。
現実と常世の境目が、溶け合い始めていた。
「う……ああああっ!」
俺は頭を抱えて叫んだ。
指先から、熱い何かが溢れ出す感覚。
視界が、完全に朱く染まる。
——境を、越えた。
その瞬間、二人の火乃香が同時に手を伸ばしてきた。
「ようこそ、私たちの……」
世界が、赤く、赤く、染まっていく。




