一歩引いてるやつが実は一番把握している
子供の目の中で何かが光った。
早えな、どんだけ制服に対してて警戒が強いんだよ。
違うわ。そのぐらいこの制服のやつに踏み躙られてきたんだ、この子供は。
じり、と逃げようとする足元、靴はくたびれ切っていて今にも穴が開きそうだった。
うん。
こんにちは、はだめだな。全速力で逃げる子供の絵しか浮かばない。視線を逸らす? 無理だ、もう認識されている。
思い出せ、こういう状況を俺は知っている。
わざと凝視する。眉間に皺を寄せて、明らかに不審な人物を見るように。上から下、何度でも。
それから、息を吐いてみせた。警戒心は相変わらず高いが、今逃げたら追いかけられることを悟っているのだろう、子供はじっとこちらを見たままだ。
考えろ、頭のお堅い愚かなお役人にありがちな第一声。俺が一番油断した一言を。
「……お昼休み?」
状況を測っていると悟らせろ。学生か否かさえ相手はわかっていないと思わせる。さっき俺が見せた身なりの確認、己の清潔さはこの場合どう転ぶかを天秤に乗せろ。
子供は答えない。
当たり前だ、こんな単純なものに引っ掛かるなら大人は騙せない。こちらを観察するようにただ見ている。困ったように下げられた眉、さて、どこまで演出だ。どう出る? 可哀想な子供を演るか? いや、俺ならそうしない。俺程度でもわかる、こいつもそうはしないだろう。
迷って迷って、ようやく子供は口を開いた。
「……人を、待ってるの」
かかった。
強く眉を寄せた。肩に力を入れる。警戒心をはね上げろ。地雷を踏んだと思わせろ。ここで会話を打ち切るリスクを大きく示せ。
覚えている。
制服の大人が一番怖い。奴らは権力を持っている。
案の定、子供は怯えたように硬直した。近づくことはせずに、穏やかに聞こえるように問いかける。口角は上げる。けれど笑わない。そうだ、俺を問題視する奴らはいつだってそういう顔だった。
「……ごめん、嫌なこと聞くね? その待ってるひと、こういう刺青入ってる人?」
こんな、と宙に描いた指先に子供はただ首を振る。そう、と頷いて視線を落とした。なら、と口の中で言って、もう一度、子供と視線を合わせる。警戒はまだしているが、だいぶ抜けている。制服ってだけで威嚇してくるわけではないらしい。イーデは威嚇派だった。懐かしい気持ちが自然に表情を緩ませる。
肩から力を抜いて、ごめんね、ともう一度笑う。逃すな、と体が緊張していたのが妙にうまくいった。つくづく人生は何がどう作用するか分からない。
「ほんとにごめんね、ちょっとこっちピリピリしてて、あ、待って俺確か」
大丈夫、と笑った子供の言葉に頷いてポケットを探りながら近づいた。子供はなんとなく笑っているばかりだ。足に力は入っていない。
警戒を解いた役人はちょろいよなあ。飴でももらえると思ったか。
手を伸ばせば捕まえられる距離に気がついたのか、子供の足が緊張した。遅えわ。
掴む。何よりまず来たのが、このままじゃ折る、だった。内心慌てて力を抜いて、瞬間的に逃げようとする子供の心の方を一時的にでもねじ伏せる。落としきれ、許されるのは一撃だ。この子供が捨て身の攻撃に転じるより早く、敵わないと叩き込め。
「大人騙すにはまだちょっと早かったなあ」
俺、お前より大人だから、絡め手知ってるんだよ。
絶句して、けれどそれでも睨み返してくる目に覚えがある。イーデの目だ。あるいは俺の目。
お前なんぞに屈してなるものかと、なけなしの誇りを燃やす目。非常に居心地が悪かった。
ようやく掴んだ腕はやっぱり骨の感触ばかりが手のひらに残った。どこか懐かしいその先で子供の瞳がまだ光る。
ああもう。だから!
本当に億劫なのはここからだ。
相変わらずこの辺りはドブと垢の匂いが強い。スラムの奥に行くための道は知らなきゃ分からないくらいには細いしわかりにくい道だ。ここ一本戻れば、あるいは行けば、色んな意味でもっと楽になるんだが、ここに留まるやつには留まる理由があるのだろう。
例えば知らない人間ばかりの危険地帯に行くのは怖い。
例えば生活が悪くなるとしか思えない。
例えばプライドが許さない。
たとえば。
「ハル!」
扉なんだか動く壁なんだかもはや分からない、かろうじて室内と言える隅っこで、土の上で座っている子供を守りたい。
「名前」
「……ジェントルマンなら」
「こんにちは初めましてナサンと言いますあだ名はナニーです呼ぶ奴らいつかぶっ飛ばしてやろうと思っています。はい、お前」
「あんた、息どうなってんの……。リリーシュカ」
「あ? 娼館の子か? 親どこだ、東欧あたりか」
「名前だけで詰めてこないでよ!」
言い返す元気はある、と。よかった、掴んだ腕の細さにこっちは虐待まで見てたんだ。
棲家に連れて行けと言って案内させた先は案の定というか、スラムの奥の奥の一歩前だった。ほんとうに帰れなくなる崖下のほんの直前、ギリギリ一歩手前のような。
こういう連中が一番困る。いっそ落ちてくれればこちらとしては管理が楽なのに。
けどまあ、この家に来た瞬間になんとなく事情は見えた。
「……まあいいや、はい次お前」
次、と差しても小さな子供は何も答えない。怯えて小さくなるだけだ。代わりのようにリリーシュカが声を上げる。
「この子はハルキ。……何もしないで」
「あ? 東方系の娼館か。この辺だと薔薇窓裏か、お袖引き……。なあ、婆さんのことなんて呼んでた?」
「だから、名前一個で一気に背景詰めてくるのやめてよ!」
リリーシュカが怒鳴ったか。ハルキはずっと彼女の陰に隠れているばかり。声が出ない? 違う、それならリリーシュカの反応はもっと柔らかい。まるで触ること自体が大きな傷のような威嚇。
なるほどね。意識して声を低くした。
「お前、そうやってこの子の声を奪ってきたのか」
瞬間、ハルキの手に力が入る。耳は正常。蔑みの言葉も判断できる、と。知能にも異常はないな、というよりもこの状況で下手に何も言わないあたり、先天的の声が出ないんじゃないならリリーシュカよりも判断能力は高い。
「お前が書いてくれっていってた書類な、食事の数が変なの。明らかに2人分なのよ。その程度、俺たちが見抜けないとでも思ったか、間抜けめ」
大嘘である。新人がなんかこれ近いっす! と今朝投げてきた書類は、なんというか全部微妙に的外れだった。あいつ本当に使えんのか使えねえのかわかんねえ。いや、それはともかく。
リリーシュカの反応でわかる。初犯じゃない。慣れすぎている。けれど誤魔化し方が直球すぎる。情で乗り切ってきすぎだ。
「助けてください、いいですよ、の構図が成立するのは後せいぜい二年だな。そのあとは多分おまえが一番嫌ってた奴らよりさらに酷いもんになるぞ」
「う、るっさい! あんたたちなんか、あんたたちなんか、許可できませんしか言わないくせに!」
ハルキは。特に反応がない。なるほど、こういう侮辱をリリーシュカは代わりに被ってきたのか。
知ってるよ。
下の子は守るもんだもんな?
けど下の子にだってプライドはあるんだわ。
「ハルキ」
呼ぶ。姉は怒りで頭の中で正常な判断はできていない。しかもどうやら状況はまずい。そこにきた大人をお前はどう判断する?
さて、お前はどっちだ。
「……姉ちゃん」
声が高い。栄養が行き届いていないからではなく、おそらく、純粋に幼い。ずっと強く握っていた姉に服を離した。うん、そうだな、ここからはお前が話す番だ。
「やっぱ、俺、売ってよ、姉ちゃん」
「待て待て待て待て待て」
なんかとんでもねえ単語出たな!? いや待てハルキ、お前何言ってる!?
「我が国では人身販売は重罪です!」
声が裏返ったのに言い訳したい。俺その発想なかったわ!
どっから飛んだ!?
リリーシュカはというと、自分の影のハルキを見たまま絶句している。
あ、お前仕込んでないのね!?
「いや、なんか、男の子でもいいやって、そういうところにさ、……あります、よ、ね?」
「待て待て待て待て」
早いんだよ、なにもかもが! ついでにいうと、極論に行きすぎる!
「あのな、初対面で娼館斡旋する役人はいねえんだよ」
「あ、お役人さんでしたか」
聞いた瞬間に一気にテンションが下がった、というか、全部が繋がった感じがした。
なんでリリーシュカは弟を連れて庇護下から逃れたのか。
なんで弟はそれに反発しなかったのか。
なんでリリーシュカは助けてと声を上げられなかったのか。
なぜ、彼女は人を騙す手段しか取れなかったのか。
嘘だろ、これを処理しろって?




