確認と情報収集と根回しは基本である
昔から小賢しい坊主だった。
親なんて存在は最初からいない環境で育ったもんだから、身近な大人と言ったらシスターの婆さんと神父のおっちゃんくらいなもんだ。同じ年くらいの子供たちとわちゃわちゃしながら、まるで一個の塊のように育った中で、何度も繰り返し言われた言葉がある。
「その要領の良さと頭の回転の速さをもっと他に使いなさい」
まあ、ふざけんなって話だ。
どれだけ早く起きたとしても、絶対に定時前には仕事に行かない。もう言い切ってやろう、ポリシーである。
ほんの少しでも早く行こうもんなら、ちょうどいいばかりにほいほいほいほいざくざくざくざくと雑用を押し付けられるからだ。
定時五分前に仕事場に現着。いや、俺の仕事はたかが事務的なもんなんで現着なんて言葉は本当は違うだろうが、心情としては現着に大変近い。
ここは悲鳴に溢れてる。読み書きもまともにできない連中が誰かに頼み込んだ悲鳴に。
絶対これなんかの娯楽になってんだろってくらい危ういバランスで積み重ねられた書類が積まれた机を抜ける。ここは俺の席じゃない。俺は書類仕事が嫌いなわけじゃない。億劫なだけだ。
積み上げられた書類は、どうかと願う人の必死な叫びだ。助けてくれという悲鳴を娯楽にするなんて悪趣味なこと、できるわけがない。
出来るのは、助けてくれと泣き喚いた事のないやつか、無知なお子様だけだ。
「しゅにーん、しゅにーん」
が、そういう類ではないバカもいる。
「代理だ、っつってんだろ。お前、ほんとに追い出されるからな!?」
「大丈夫っす! 親がすげぇんで! それより主任、助けてください、これ訳わかんなくて」
「代理な」
これこれ、と差し出された書類の一行目、いきなりのポカに肺の底から息が出た。
「お前、3+8いくつだ」
「11っす」
「18になっとるわ」
え、と絶句する新人に紙を差し戻す、寸前に脳内で何かがちらりと鳴った。受け取る形になっていた新人の手を無視して数字をたぐる。なんだ、何に引っかかった。
冒頭のミスを無視して流れていく計算を目で追って、ようやく見えたのは食費の欄。
「これ、記入者誰だ」
「レオンのおっさんとこの3番目っす。職業大工見習い、年齢19、独身、実家住まい。交際相手は分かりません。たぶんいないんじゃないかなあ」
レオン? 誰だ、知らない。けれどこの街に大工は多くない。そこの見習い、なら一度は顔を見せにはきているはずだ。実家住まいなら経済的に微妙な位置の。そういう3番目。……ああ。
「イーデのとこの赤髪か」
てことは不正を働けるようなやつではない。イーデはそういう輩をとことん嫌う。
ならば。
……ならば。
「再提出させますか?」
「いや。詳細だけ欲しいと伝えてくれ」
頷いた新人が早速自分の机に戻っていく。腹立つことにこいつの机は下手したら俺よりも整っているかもしれない。
案の定、代筆だった。
分かりません、すいませんと頭を下げた三男坊に首を振った。こいつは何も悪くない。助けてください、いいですよ、のいいですよ、の側の人間だ。
では誰がこのお人よしで善意の男に助けてくださいと言ったのか。
正解は、ハニートラップの類だった。
可愛い人でした。こう、目がぱっちりしてて、まるですごく晴れた空を見てるような気がしたんです。髪の色もなんだか柔らかい栗色で、ふわふわした癖っ毛で、でもほら綺麗な髪って結構な値段で売れるじゃないですか。だからその子も案外髪短くて、肩までなんて全然ないくらい短くて。え、いや。男の子じゃなかったですよ、だってその、ねえ? 分かるでしょ? ほら、
「ぃいいって!! な、母ちゃん!」
「こ、の、あんた、お役人さんの前でなにやらかしてんの!? あん、た、あんたって子は!! あんたってバカはいつもそう、子供の時からほんっとにそう! 言わなくていいことばっかりべらべらべらべら」
「おかあさん、おかあさん」
素晴らしい打撃で三男坊の後頭部を撃ち抜いた中年の女性に思わず笑いが出た。いや、学校に行ってた頃から聞いてはいたが、母ちゃんってほんとにすげえわ。自分よりでかい息子を平気でしばいたぞ、マジで強え。
家族って恐ろしい。いろんな不条理が枠の中に捩じ込まれている。
「つまり、君はその人の名前を知らない?」
止めた意味がないくらい叩かれている三男坊に尋ねると、彼より早く母親が頭を下げる。その勢いにむしろこっちのほうが驚いた。よくできた劇を見てるみたいなコミカルさだが、待て待てと思い直す。早朝にいきなり固い制服が押しかけてきたのだ。貧困街ぎりぎり界隈の住人ならば、こう言う反応にもなるのだろう。
「うちのがすいません! でもきっと、多分、この子バカだけど、大事なところは間違えない子なんです! 違うって言える勇気はある子だと……おも、うんです! わからないの、きっと嘘なんかじゃ」
「おかあさん、おかあさん」
いやもうつくづく、家族ってすげえわ。
「誤解があるようなんですが、我々はご子息のことはかけらも疑ってはございません」
深く頭を下げていた母親が弾かれたように顔を上げた。
「聞きたかったのは、どうやって落ち合う予定だったのかってそれだけなんです」
名前も知らない、初めて見た人間ともう一度会うためにはどうしたって約束がいる。相手は多分この三男坊に何かを匂わせ期待させ、来ないという確率を下げている。お願いあなただけが頼りなの、と可愛い人に言われて振り切れる10代男子は、……うん……、まあ、少ないわな。
ついていくという三男を丁寧に断った。粘られた。もう、内心ビビるくらい粘られた。最後は足に縋り付いてくんじゃねえかってくらいには粘られた。いやはや、つくづく母ちゃんはすげえ。アレを拳で黙らせるんだから。
朝、職場出る時も近いやりとりをした。
「自分も同行します」
「却下だ、馬鹿たれ。お前なんか連れてったら怖くてしょうがない。一歩踏み込んだ瞬間にいきなり詐欺に遭うぞ」
「ですが、自分の案件です!」
いつにない口調の新人にちょっと驚いた。お前、昨日18ってミスしたろうが、茶化そうとした口を慌てて閉じる。
春先からしか付き合いがなかったからこいつの何かを知ってたわけじゃなかったが、なるほど、こういう奴か。
そりゃ机も綺麗だし、分からんって言ってすぐ人を頼れるわけだわ。
「お前が今日やることは二つ」
噛みついてくるんじゃねえかって思うくらいの勢いを逸らすために目先にものをぶら下げることにした。同行は許可できない。それはこの新人の手にはまだ余る。
「一つ。同じような書類を洗え。どっかの出費だけが妙に上がってる奴だ。お前、市場調査はもう経験したな? 収入と、支出。環境による雇用賃金相場。ワタクシそんなこと存じませんわは通らない。出来るな?」
ぺ、と出した一本指に新人の視線が緩んだ。一瞬寄り目になって焦点をこちらの顔に結び直す。もう噛みつく勢いはなかった。さすが、親がすげぇだけあって、感情のコントロールには慣れてるらしい。
「……はい。まず初めに教わったっす。けど、それ、」
「二つ。俺はこれからここをちょこちょこ離れるわけだが」
頷いた新人にこちらも頷き返す。なるべく重く見えるように。
「どこ行ったんだって上が騒ぐだろうから抑えてくれ。なるべく尊大に、できるなら居丈高に。自分の使いに行ったって誤魔化せ」
は、と変な息を漏らした新人に自分ができる最大の軽薄な笑みを見せてやった。
「相手黙らせるくらいに七光れ。頼んだ」
待ち合わせ場所がこれまたデートの待ち合わせ場所定番でうんざりした。木を隠すなら森の中、じゃねえんだよ。なんかほんとに勘弁しろよ、新しい組織とか聞いてねえぞ。手段がいちいち微妙にプロなんだかそうじゃないんだか分からなくて逆に怖いわ。
さて。どこだ。
髪は短め、薄い栗色の癖っ毛で、身なりはおそらくあまり良くないが、同情できる余裕がある程度には清潔な女性。目の色は青だろうが、目の色なんざよっぽその至近距離じゃねえと分からんし……。
いた。……が、ちょっと待て、可愛い『人』? あれが!?
昼下がり、定番の待ち合わせスポットで不安そうに辺りを見回しているのは見た目だけでいうなら子供。十をいくつか超えたかくらいの、どう見ても子供。
ああ、三男坊、そっちか。女性に対する欲ではなく、保護者的な欲を煽られたのか。それなら役人相手にあんな粘るわ。怖い役人が可哀想な子供に何かするんじゃねえかっていう庇護欲からの粘りだったんだな、あれは。母ちゃんの言葉もまああってたな、これ見捨てる方が間違いだと思う、あの男の感覚は正しいわ。
けど。
なあ。
だから書類仕事は億劫なんだ、こういうことばっか起きやがる。




