第9話:覚醒の代償と、死角の選択
「ハッ……ハッ……っ!」
給水塔のコンクリート壁に背中を押し付け、私は荒い息を殺した。
頭の中が割れるように痛い。
三十代の日本のサラリーマンとしての冷徹な状況判断能力と、八歳のシリア人少女としての激しい恐怖心が、脳内で凄まじい濁流となって衝突している。
(落ち着け……パニックになるな……! 前世の俺がどうあれ、今の俺はレイラだ。この人の娘なんだ……!)
泥に汚れた幼い手のひらを見つめる。小さくて、華奢で、爪の間に黒い泥が詰まっている。この頼りない身体が、今の私のすべてだ。
「レイラ……レイラ、大丈夫よ……怖がらないで……」
隣で母さんが、震える腕で私をきつく抱きしめてくれた。
私を安心させようと必死に声を絞り出しているけれど、母さん自身の体はガタガタと小刻みに揺れ、呼吸は浅く乱れていた。着慣れたドレスは泥と埃で汚れ、綺麗な黒髪を覆っていたヒジャブは破れかけている。
その姿を見た瞬間、前世の男としての冷徹な思考の奥から、レイラとしての熱い感情が爆発するように込み上げてきた。
(渡さない……! この温もりを、お母さんを、絶対にあの狂人どもに渡してたまるか……!)
前世の俺には、守るべき家族も、命をかける対象もなかった。孤独に流されるまま生きて、惨めに死んだ。
だが、今の私にはお母さんがいる。愛してくれるお父さんがいる。この命は、二人の愛によって紡がれたものだ。
「お母さん……聞いて。声を潜めて」
私は母さんの耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。
もう甘えた少女の声ではない。前世の思考が導き出した、生存のための冷静な指示だ。
「え……? レイラ……?」
「向こうから足音が来る。三、いや四人……。手当たり次第に生き残りを撃ってる。ここで見つかったら、二人とも殺される」
母さんが息を呑むのが分かった。瞳に絶望の色が濃くなっていく。
「そんな……神様……どうしてこんなことに……」
「泣かないでお母さん! 大丈夫、逃げ道はある!」
私は給水塔の隙間から、路地の構造を観察した。
前世の記憶——市街地戦における遮蔽物の使い方、視界の死角、パトロールの習性。知識の引き出しから、必要なデータが目まぐるしく引き出されていく。
(敵は路地の中央を警戒しながら前進している。射線が通るのは直線道路だけだ。右手の崩れた民家の裏手……あそこの下水溝の隙間なら、大人の体は無理でも、俺たちの体なら潜り込める!)
「お母さん、あそこの瓦礫の隙間が見える? あそこを通って、裏の暗渠に入るの。あそこなら上からの銃撃も届かない」
「でも……あんな狭いところ、通れるかしら……」
「通るの! 服が破れても、擦り傷だらけになってもいい! 生き残るために潜り込むの!」
私の強い眼差しに押され、母さんは喉を鳴らして頷いた。
「わかったわ……レイラ。お母さん、あなたについて行く……」
「合図したら走って。敵が向こうの曲がり角を曲がった瞬間……今だ!」
私は母さんの手を強く引っ張り、給水塔の陰から飛び出した。
裸足の足裏に、鋭利なコンクリートの破片が刺さる。激痛が走ったが、前世の意識が「脳内麻薬を出せ! 痛みを無視しろ!」と激を飛ばした。痛みに構う余裕なんて一秒すらない。
「う、あ……っ!」
母さんが瓦礫に足を取られて体勢を崩しかける。私は幼い身体の全筋力を振り絞り、母さんの腕を引っ張り上げた。
「止まらないで! 潜り込んでっ!」
崩れた民家の土台に開いた、直径五十センチほどの暗渠の開口部。そこへ母さんを押し込み、私も泥まみれになりながら滑り込んだ。
直後——。
「おい! 今、向こうで影が動かなかったか!?」
「気のせいだろ、ネズミでもいたんじゃないか?」
荒っぽいアラビア語の怒号が、私たちがさっきまでいた給水塔のすぐ近くで響いた。
ザッ、ザッと重い軍靴の音が土埃を踏みしめる。
暗渠の湿った闇の中で、私は母さんの口を自分の小さな手でしっかりと塞いだ。
母さんは目を限界まで見開き、私の身体をきつく抱きしめながら、必死に呼吸を殺している。
泥水の不快な匂いと、ドブの臭気。
その暗闇の中で、上を通る兵士たちの足音を聞きながら、私は前世の知識と今の現実の狭間で、激しい悪寒に震えていた。
(うまくいった……前世のミリタリー知識と冷静な思考のおかげで、最初の死線を越えられた……)
自分の頭脳の明晰さに、一瞬だけ安堵しかけた。
大人の知恵があれば、この地獄でも母さんを守り抜けるかもしれない。前世の知識というチートのようなアドバンテージがあれば、無力な子供でも生き残れるかもしれない——そう、過信したのだ。
だが、私はまだ知らなかった。
現実の戦場の凄惨さが、大人の付け焼き刃の知識など何の意味もなさないほど、理不尽で、圧倒的で、残酷であるということを。
暗渠の上を通過していく靴音が、私たちの未来を嘲笑うかのように、遠くへ消えていった。




