第8話:弾雨の中の疾走と、覚醒する「男」の影
黒煙が太陽を覆い隠し、アレッポの空は不気味な暗紫色の静寂と、爆音の狂乱が入り混じる地獄へと変貌していた。
空気は焦げたコンクリートとガソリン、そして鉄の錆びたような血の匂いで重く澱んでいる。吸い込むたびに喉が焼けつくように痛く、私は母さんの服の裾を握りしめたまま、必死に足を動かした。
「ハァ、ハァ……っ! 大丈夫よレイラ、あともう少しで幹線道路に出られるわ! そこなら支援の車や警察がいるはずよ……!」
母さんは息を乱しながら、荒れた路地を突き進む。
足元には破裂した水道管から水が噴き出し、崩れた壁の粘土と混ざり合って、どろどろの泥流となって私たちの足をすくい取ろうとしていた。すれ違う人々は誰もが狂気じみた目で叫び合い、押し合い、幼い私を押しのけて逃げていく。
「痛っ……!」
押し寄せた群衆の肘が私の肩に強く当たり、私は泥水の中へ膝から崩れ落ちた。履いていた小さなサンダルが脱げ、冷たい泥の中に埋もれていく。
「レイラっ!」
母さんが振り向き、泥まみれになった私を抱き起こそうと腕を伸ばした——その瞬間だった。
——ヒュンッ! カンッ!!
頭上数センチのところを、鋭く高い金属音が掠め抜けた。
すぐ後ろの石壁が弾け飛び、破片が私の頬を切り裂く。熱い血がひとしずく、頬を伝った。
「嫌ぁぁぁっ! 撃ってきてる! 上から撃ってるぞ!!」
「逃げろ! スナイパーだ! 建物の影に入れ!!」
悲鳴が爆発した。群衆が一斉にパニックを起こし、蜘蛛の子を散らすように散っていく。
路地の突き当り、崩れかけた三階建てのビルの屋上。煙の向こうに、黒い布で顔を覆った男の影が見えた。その手には、長く黒い筒——自動小銃(AK-47)が握られている。
(あ……あいつ、人を撃ってる……? 私たちを……殺そうとしてるの……?)
恐怖で全身の血が凍りついた。足がすくみ、泥の中から立ち上がることができない。八歳の少女の脳は、自分に向けられた無差別の殺意という異常事態を処理しきれず、完全にフリーズしていた。
「レイラ! 伏せてっ!!」
母さんが覆いかぶさるように私を抱きすくめた。
直後、耳を刺すような連続射撃音が路地に響き渡る。
タタタタタタタッ!!
バチバチバチッ! と、私たちのすぐ横の地面が跳ね上がり、泥と砕けたコンクリートが激しく降り注ぐ。母さんは私を自分の体で完全に覆い隠し、必死に神様の名を唱えながら震えていた。
「大丈夫……大丈夫よレイラ……お母さんが守るから……絶対に守るから……っ!」
母さんの声は涙で途切れ途切れだった。
私を庇う母さんの背中、そのやわらかい温もり。けれど、その温もりが、次の瞬間に射抜かれて失われてしまうかもしれないという強烈な予感が、私の胸を突き刺した。
その時だった。
ずきん、と頭の奥底で、巨大な金槌で殴られたような激痛が走った。
(——おい、嘘だろ……!?)
脳裏の霧が、激しい勢いで晴れていく。
八年間、ずっと「自分以外の誰かの遠い夢」だと思い込ませていた記憶の蓋が、死の恐怖によって力任せにこじ開けられた。
押し寄せてくるのは、三十数年分の知識と記憶。
日本の満員電車、会社のオフィス、居酒屋の喧騒——それだけではない。かつて趣味で読み漁ったミリタリー知識、ニュースで見た市街戦のセオリー、そして何より「成人男性としての合理的な思考回路」が、爆発的な濁流となって八歳の少女の脳内を駆け巡った。
(跳弾だ……! 敵は高所から撃ち下ろしている。直撃じゃなく、壁や地面の反射弾を狙って路地全体を掃討しようとしている……! このまま伏せてちゃ、数秒以内に二人とも蜂の巣になる!!)
自分の中に突如として現れた「冷徹で大人なもう一つの思考」に、私の幼い心は混乱し、悲鳴をあげた。
(なに……? これ、なに!? 私の頭の中に、おじさんが……っ!?)
(落ち着け自分! 今は混乱してる場合じゃない! 母さんを死なせたくないんだろ!?)
脳内で二つの意識が激しく衝突する。
しかし、迫りくる死の足音は、逡巡を許してはくれなかった。
(射程角の死角は……あの崩れた給水塔の陰だ! あそこなら高所からの射線が通らない!)
大人の男の知識が、即座に生存ルートを弾き出す。
私は震える手で、私を庇い続けている母さんの服を強く引っ張った。
「お母さん! 立ち上がって! あっちのタンクの裏へ走るの!!」
「え……? レ、レイラ……!?」
急に叫んだ私の声のトーンに、母さんは驚いたように目を見開いた。いつもの甘えた声ではない。まるで切羽詰まった大人のような、鋭く通る声だったからだ。
「早く! 次の連射が来る前に!!」
私は母さんの手を引っ張り、泥の中から立ち上がった。
靴を失った裸足に、尖った石やガラスの破片が刺さる。激痛が走ったが、前世の記憶が「痛みで立ち止まるな、死ぬぞ!」と絶叫していた。
「くっ……走れっ!!」
幼い身体の脚力を全開にし、母さんを引っ張るようにして給水塔の影へと滑り込む。
直後、私たちがさっきまで倒れていた場所に、容赦ない弾丸の雨が降り注いだ。
ズババババッ! と泥が跳ね上がり、もしあと一秒遅れていたら、二人とも蜂の巣になっていたのは明らかだった。
給水塔の陰に倒れ込み、肩で激しく息をつく。
母さんは青ざめた顔で私を見つめ、信じられないというように目を見開いていた。
「レイラ……あなた、今……」
「ハァ……ハァ……っ! お母さん、怪我はない……!?」
私は必死でいつもの「少女のレイラ」の声を作ろうとした。けれど、心臓は早鐘のように打ち打ち、頭の中は完全に覚醒した「大人の男性の意識」と「恐怖に震える八歳の少女の心」が混ざり合い、ぐちゃぐちゃに混乱していた。
(俺は……いや、私は……何なんだ……? 日本のサラリーマンだった男の記憶……? じゃあ、今の私は……レイラは誰なんだ……!?)
自分の存在そのものが揺らぐような恐ろしい感覚。
だが、そんな哲学的な苦悩を吹き飛ばすように、路地の向こうから怒号と、重い軍靴の足音が近づいてきた。
「生存者を捜せ! 抵抗する奴は全員殺せ!」
粗暴なアラビア語の方言。反政府勢力の民兵たちだ。
彼らは手にしたAK-47を空へ向かって威嚇射撃しながら、崩れた建物から命からがら這い出てきた丸腰の市民たちへ、容赦なく銃口を向けていた。
(まずい……! 人道主義なんて欠片もない連中だ。見つかったら……母さんは凌辱されて殺される。俺も……レイラも殺される!!)
前世の知識が、最悪の未来を克明に描いて見せる。
私は恐怖でガタガタと震える小さな手で、母さんの手を今度こそ力いっぱい握りしめた。
(考えろ……考えろ佐藤! いや、レイラ! 大人の知識があるなら、この危機を脱する方法を考えろ! 俺が……私がお母さんを守るんだ!!)
幼い少女の執着と、前世の男の知恵が、戦火の中でひとつに溶け合っていく。
平和だった微睡みの時間は完全に終わりを告げ、血と硝煙サバイバルの幕が、容赦なく切って落とされた。




